叱らないでも いいですか

「叱らないで、子どもに伝える・通じ合う」 小学校教師、『新間草海』の本音トークです。

【集団づくりスキル】哲学する子を育てる方法

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学校では、子どもたちが、掃除をきちんとやっている、ということになっている。

うちのクラスでも、一応、一生懸命やっているようだ。
わたしが毎日、仕事ぶりを確認して回るからかもしれないが。

ところで、そんなふうに、一見、なにも事件が起きていなくても、それで完璧・終わり、ということはない。
一見、子どもたちが落ち着いてやることをやっているように見えていても、だから良い、という単純な考えにはならない。形を見ていくら美しく整えていたとしても、「どの子も心底納得しながら、安心している中で、思い切りやれている」、とは限らないからだ。

子どもってのは、なにをしていても、どんな状況でも、やはり自分の立ち位置を確認をしたいものらしい。
それでいいよ、と言いながら見ている人がほしい、と思っているものだ。
信頼のできる大人からの注目が欲しいのだし、安心をしっかりと感じ取りたいものなのでありましょう。


それで、なにも問題が起きていないときにかぎって、こういうことを聞く。
「掃除のことで、時間をとって話をしたいと思います。
掃除のことで、今、課題、問題だと思っていることはないですか?」


こうきくと、子どもたちは、あれこれと言い出す。


・掃除時間に間に合わないで、走っていくときがある。
・委員会の仕事が中途半端なのに、掃除時間になってしまって、片付けがいい加減になってしまう。
・道具を忘れて、取りに行ったりしていて、時間が余分にかかってしまっている。
・隅がよごれていても、だれもやらないから、最近すごく汚れてきている。
などなど・・・。

こういうことを、わたしはだまって聞いている。



これは、「ふりかえること、振り返る行為、その行為自体」に価値があるので、内容がどうだからどう、ということはない。


あまり問題のない、という時期にやるから、子どもたちも、ただの反省モードで言うことがない。

「自分たちのそうじって、どうなんだろう。」


と客観的にふりかえられるように、と考えて、進めていく。


この、客観的な振り返りをしていて、わたしは時折、

「〇〇〇・・・って言っている人がいますが、どう思いますか?」


と、まぜっかえすのが役割である。



なべの中の具が、煮えて、だし汁のなかをゆったり漂うのを、わたしがおたまでちょっと、かき混ぜているような感じ。



子どもたちの加減が落ち着いた頃、わたしは、最後の決め台詞を放つ。


「では、今出てきたこと、さまざまな意見がありました。すべて、大事な意見だったと思います。これらの意見を、自分たちの財産と考えて、大切にしていきましょう」



つまり、教師は、まったく意見らしいことを言わないのであります。

それに、子どもたちも、掃除のことで叱られるような覚えもないし、責められているとも思わない。
だから、冷静に、自分たちの姿を見ようとすることができるのだろう。


こうした日常の繰り返しから、子どもたちは、なんだか哲学する人になっていくようである。

縄文時代18