叱らないでも いいですか

「叱らないで、子どもに伝える・通じ合う」 小学校教師、『新間草海』の本音トークです。

我々が包み込まれている価値観の枠ぐみ

現代では、見かけよりも中身が大事、と言うことになっている。

だから、いかに見た目が美しくて、

精巧な技術で、ち密に磨き上げられ、

ピカピカと輝くようなガラスや水晶も、

ダイヤモンドに比べたらその価値はほとんどない、ということになっている。



ところが、ある人はガラスの指輪を持っていて、

精密にカッティングされた工芸品に、

なんどもため息をもらし、なんどもその美しさを称えて、

満足しきって、これまで暮らしてきた。

そんな話を聞くと、それがたとえガラス玉だといっても、

その美しさに、価値がなかった、というわけではあるまい。




見た目が美しい(と思うこと)にも、たいへんな価値が、ある。

そしたら、いちいち、そのことに満足している人たちに向かって、

「それ、中身はガラスだから。ダイヤのニセモノだから」

なんて、言わなくてもいいんじゃない?

ニセモノだろうがなんだろうが、断然、美しいと思ってるわけだし、

アクセサリー、というジャンルでは、

それこそ、きれいなビーズ、ガラス、水晶が、

きちんとした素材でもあるんだから。




化学的な原子構造がきちんとダイヤモンドである、ということにしか、

価値はないのだ、という言説、だれが広めているのだろう。

もしかしたら、ダイヤモンドを売ってる会社?



ダイヤモンドを売る会社の人からしたら、

「所詮、イミテーションに過ぎぬわ!」

「ダイヤの本物、ホンモノにしか、本当の美しさはない!あとはガラクタ!」

ということを、世の中の全員に、信じ切ってほしいでしょうナ。




われわれは、どうやら、外見よりも中身が大事、という文化なんでしょう。

それは一方で、とても良いことのように思えますが、

しかしまた、

周囲も必ず同じふうに考えてくれなくては、困るため、

「中身にこそ、価値があるのだ!」

と、ずっと、ずーっと、声高に主張し続けなければならないのだとしたら、

なんだか、それはちょっとばかり、胡散臭さを、どこかに隠し持っているようで・・・。




「いいの。ガラスでも、綺麗だから」

「私は、これが好き!」

と、明るく言い切っちゃう人ばかりになったら、

『本物証明』に価値を置こうとしてたダイヤモンドの会社は、困るのか・・・。

まぁ、べつに困らないか。

ガラスが美しいと、ダイヤモンドが汚れちゃう、というわけでもない。




結局、カチって、なんなのか?

「ここに価値がある!」と叫ぶとき。

みんなが本当に心底、自由な感じにふるまうような社会になってきたら、

どう変わるんだろうか。


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