生活科の気づき ~研究授業に向けて~
前年度の生活科・研究授業では、「質の高い気づき」という言葉に焦点があたり、職員でさまざまな話し合いがなされた。
気づき、とは何だろうか。
多くの資料を読みこむなかで、気付き、の場面をズバッといい表しているものがない。
なんとなく、というニュアンスのものばかり。
こんなので、いいの?と、正直思った。
でもまあ、ふだん学級の子どもたちをみていて、なにかを急に悟ったように、大きな真理に気付く、なんてことがあるわけもない。
これまでの思いとは、少しちがって、視野がひろがったような・・・
ということなのだろう。
生活科の授業の中に、思考する場面がたくさんあること。
思考する場面が、深く、長く、続いていること。
さて、うさぎの飼育を通して、と考える場合。
思考する、とはどんな場面なのだろう。
作業させる、というだけでない。
思考、がなければならない。
思考、ワーキングメモリ。
子どもたちが、考える。
その際、彼らが武器とする、「既知の知」をまずはフルに活用すべきだろう。
「既知の知」がフル回転することから、新しい次のステージが見えてくる。
仮説、予想、予測・・・、そうした知の作業をさせるときには、これまでの前提、となる多くの要素が整理されていなければならない。当然、ワーキングメモリが活性化されている。
それができるようにさせるために、わざと、ワーキングメモリをどんどんと活性化させてやることが必要だ。
たとえば、わざと教師がまちがえて見せる。
「こうだよね」
と自信たっぷりに見せる。
「ちがう!」と大騒ぎになる。
彼らのワーキングメモリは、最大に回転している。
「ちがうはずだ」と言える材料を、いっしょうけんめいに検索し、構成しようとする。
あるいは、拡散的発問。
「なんでも、みたことをできるだけ多く書きなさい」
ワーキングメモリに負荷がかかり、より活性化する。
また、知覚にうったえる発問。
「なにが見えますか」
脳内のメモリが一気に、集中していく。
単純な視点が与えられ、シンプルな作業を要求されるからだ。