「南山大学の落研」の思い出
落語に出会ったのは、中学時代。
高校でハマった。
今のプロの落語家もそうらしい。
先日、柳家喬太郎さんも同じことを言っていらした。(噺のまくらで)
高校の頃、近所の南山大学の落研を訪れると、部室に入れてもらえた。部長(主幹)の可愛家悪魔(かわいやでびる)さんなど、今でもなつかしくあのときの光景をまざまざと思い出せる。
高校生の私に、ずいぶんと気をつかっていただいた。
ある日、大学生の先輩方が、高校生の私に向かって、写真クイズを出した。
「これ、だれかわかるか」
立派な写真のコピー。
大切なファイルから出して、私の目の前に置いた。
羽織を着て、噺をしているところ。高座姿の白黒写真だ。
ひと目で、昭和30年代、戦後間もなくの全盛期のころと分かった。
古今亭志ん生や桂文楽をはじめ、きら星のごとく居並んだ名人たち。
この人は・・・。
一瞬、自信がなかったものだから、頭の部分だけを遠慮がちにつぶやいたと思う。
こっちは初心な高校生。たばこをスパスパと吸い、車を運転する大学生が、立派な大人に見えた。自分だって数年後にはそうなる、とわかっていたのに。
「春風亭・・・ですか」
「そのあと、なんや」
ちょっと考えて、柳橋、と出てきたのに、間違えるのがこわくて、ついこう言ってしまった。
「すみません、わかりません」
「おしいな。6代目の柳橋師匠やがな。おぼえとけ」
関西から来られた方らしかった。
(伏見の中電ホールで落語会をした折、<ちょうずまわし>をたいへんうまく演じられたのを記憶している)
そんなことを南山大学の部室でやっている頃。
恋勢家乙女先輩から声がかかった。
「いっしょに、噺ききに行こうよ」
部員みんなで行く企画があった。
それが、小三冶師匠、との出会いだった。
みんなで地下鉄を乗り継いで、名城線のどこかの駅で降りた。
ホールへ着くと、ひとりの女性の先輩が、
「百川(ももかわ)でありますように・・・百川でありますように・・・」
とつぶやいている。
それをみんなでうんうん、とうなずきあっている。
私は他の人の百川をすでに聞いていたから、自分の知らない新しい噺がいいな、と漠然と思った。
今となっては、百川で本当に良かった、と心の底から思う。
まぶたを閉じると、あの頃の小三冶師匠の声までがよみがえってくるようだ。
噺のまくらがまた面白く、これ以上長くなると2つめの噺ができない、といって最初の一つ目の高座を降りたのを覚えている。
さて、2席目の「百川」、終わった途端に、くだんの女先輩が、他の先輩たちに抱きかかえられて座席から運ばれていた。夢にも思わなかった「百川」が聞けて、放心状態、だった。泣き崩れていた。
「よかった、よかった・・・!」
南山大学の大学祭。その年の落研は、なんと桂枝雀師匠を招いた。
桂枝雀さんは、豹柄の、奇抜でおもしろい帽子をかぶってタクシーから降りてきた。
あんな格好だったら、確実に芸能人だとばれてしまいそうな・・・、と思った。
私は高校生の当時付き合っていた彼女を連れて枝雀さんの噺を聞き、枝雀師匠を紅潮した顔で出迎える可愛家悪魔さんたちを見た。
卒業を間近に控え、わたしは南山大学を必死の思いで受験したが、落ちた。
可愛家悪魔を襲名したかったが、それはできなくなった。
そのかわり、島根へ行って、宍道亭しじみ、となる。
ああ、なんだか涙腺がゆるんできた。