叱らないでも いいですか

「叱らないで、子どもに伝える・通じ合う」 小学校教師、『新間草海』の本音トークです。

人生の、最大のなぞ

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以前、1年生の担任であった頃。

知的障害学級のSくんが、登校するのは大変でありました。

お母さんといっしょに昇降口に到着すると、彼は実にゆっくりとした動作で、

くつをぬぎます。

その間、お母さんも、

実にゆっくりと、

彼の横で、立っています。


たいしたものだな、と当時、思いましたね。

わたくしも、息子が生まれてから、いつもなんとなく、そのお母さんの立ち姿を思い浮かべていることがある。


いらいら、でもなく。

「ハイッ、くつをぬいで!」

と言うのでもなく。

「先生が待っていらっしゃるんだからッ」

とか、そんなことがいっさいなく。

ただ、立ってる。


べつに、息子さんを心配しているふうでもない、

忙しそうに携帯の画面を見るというのでもなく、

他の子に話しかけてコミュニケーションを積極的にとるタイプでもなく、

ただ、そこに立って、邪魔にならないようにだけど、立って、待ってる。


でもね、不思議なことに、あまり、待ってる、というオーラがないのだった。




この、ただ、立ってる、というの。

これが、なかなか、できない、ということはみなさん、おわかりになるでしょう。


わたしはそのお母さんが印象的でありましたので、同じように立っていたかったのですが、一年生の担任ですから、すぐに他の子たちに囲まれてしまって、教室に呼ばれたり、外遊びに誘われたり、話しかけられたりして、ちっともゆっくりとその親子につきあっていることができなかったのです。


今、たまたまそれを思い出したのは、6年生をつれて1年生の学級に遊びに行ったときのこと。

(最上級生は、1年生と姉妹学級なので、子どもたち34人と共に挨拶にいきます)




1年1組さんに行くと、みんなきちんと席について、座って待ってくれている。

このクラスには、知的障害学級在籍、という子もふくまれていたので、その子と、支援担当の先生も、いらっしゃいました。

どんな様子だったかというと・・・



教室の中で、いちばんテンションの高かったのは、その、支援担当の先生でした。

なんせ、しゃべり詰め。

ずっとしゃべってる。

「ほら!Tくん、6年生がきてくれたよ、ほら、座って、ほら、手を出して、いっしょにやるよ、せーの!!ほら、よいしょ・・・手を出してごらん、そうそう、ほら・・・」

という感じ。


1年生との交流あそびの時間が終わり、6年生がおわりの挨拶をした。



すると、その支援級の先生は、

「あ、ほーら、Tくん、また6年生にきてもらおうね、バイバーイ、バイバイー!!」

と、とびきりの笑顔で、そのTくんとともに、うれしがっているのです。

いや、これでTくんが、同じように嬉しがっているのなら、OKですよ。

でも、そうではない。

興奮しているだけ。

興奮する、というのと、心地よく過ごす、と言うのは、別の話だと思いますね。



おそらく、Tくんと、ほとんどこれまで面識のなかった先生なので、彼と必死にコミュニケーションをとろうと努力しているのでありましょう。

ただ、おそらく、Tくんと心を通じ合わせるには、
◎高い声
◎多い台詞
◎腕やひじなど身体の一部を勝手に触る
◎耳元で大声を出す

等は、逆効果だと思われます。



その先生は、がんばってTくんと心を通じ合わせたいと願って、
◎明るい声で
◎話しかけることで
◎ボディタッチで刺激を与えながら
◎うれしさを表現する

ことをやりたかったのだと思う。

ところが、全部、逆効果だ。
ここが、ひとの業の深さなんでしょうなあ・・・。



Tくんと、心を通わせたいとねがう人が、

がんばって努力し、励めば励むほど、

Tくんの心を、とざしてしまう方向へ、事態がうごいていく。




わたしは、この、

「励めば励むほどに遠ざかる、ということが、人間社会には実に多い」


ということを、心から嘆くものであります。




なぜ、ほしいものが、得られないのか。


なぜ、努力すればするほど、得られないのか。




ここが、本当に人生の、最大のなぞ。

このことが分かると、のこりの人生が、なんと豊かに変わることだろう、とよく想像します。



おそらくそこらへんのヒントは、昇降口で、ゆっくり靴をぬぐのを待っていた、あのお母さんの態度のどこかに、あるような気がしています。


水仙の中の虫

上手にテレビを見るコツ

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「テレビを上手に見る方法」という本なら、うちの嫁様が書ける。
どこか出版関係の方、ぜひご相談ください。


その、テレビ視聴歴ウン十年、というセミプロの嫁様に言わせると、そのコツは、

「石の上にも3年」

・・・だそうだ。

テレビも、面白くなくても、ひたすら見る。

これをば、

只管打座
という。

テレビに正対し、
心をむなしくして、
ただひたすらに心に映りこむ音声と映像に、
おのれの波長を合わせていくことで、
テレビの裏側が見える、

というのだ。


慣れてくると、真の面白さ、ここで笑ってほしい、というタイミングが見えてくるのだそう。

「ほら、テレビでみんな、笑うでしょう。スタジオでみんな笑うじゃん。そこで、ちゃんと、心の底から、スタジオの人といっしょに笑うことができてこそ、真のテレビ視聴士(しちょうし)と言えるのよ」、ということらしい。

ほんの10分もしないうちに、リモコンのスイッチを切ってしまいたくなるのは、テレビ視聴士の受験資格もない、つまりお話にもならないレベルだそうだ。そのうちに、ありとあらゆるテレビの嘘くささが、寛容の精神と共に楽しめるようになる、という。

わたしゃ、危うく、「師とあおぐのはこの人だ」、と思いそうになりました。


ところで、先日。

ニートの討論番組みたいなのをやっていた。そこに、将来に夢も希望もなくて、という人が悩んでいたので、そこでちょこっとだけ、何か頭が動いた気がして、それをきっかけに、いくつか、書く。


コメントを求められて、「将来に、夢も希望もない」
と残念そうに呟き、同情されていた、
その人はニートであり引きこもりであります。

結論を言えば、夢も希望も、なくても皆幸福に生きていける社会が本当だ。

それを、さも「夢」を持つことこそが大切だというように教えてプレッシャーを与えている今の教育が狂っている。

脅迫的に「夢を持て」とは、本末転倒。
まず先に、大事なことがある。
それを無視しているから、夢もやりたいことも、なにも浮かんでこないので・・・。

なにも準備もないのに、脅迫的に夢を持て、と脅すから、子どもの「夢」がゆがんでくる。
神経症的な「夢」を追うようになる。
まともな夢でなくて、周囲の人にとっちゃ、はた迷惑な夢だってあるよね。
「やりたい」と思う気持ちが、はた迷惑になる、ということ、けっこう、多い。
戦争して人を殺したい、という勤勉マジメな政治家ほど、はた迷惑な存在はないわけだし。

(写真は、はげしく泳ぐ勤勉なナマケモノ
P1030055


1年生の子に、「宇宙飛行士になりたい」とか「医者になりたい」とか言わす。
そこに、「夢が持てていてすばらしいです」とか、コメント書く。

いいけど、心がキュッと、ちぢんじゃってないか。気になる。

七夕の短冊に「ポテトチプツスの大ぶくろ、ぜんぶひとりでたべたいです」とあったが、
1年生だもんな。

まともな人間関係ができると⇒ やりたいことが見えてくる

これが本当の順番で。

NHKの討論でも、前段がすべて無視されているから、本当にやりたいことも見えてこないよな。

三角帽子の小人

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前回からの、つづきです。



さて、ここで、壮大な思考実験をしてみる。



もしも、仮に。

この人間の反応が、まったく逆だったらどうだろうか。

つまり、相手を変えようと欲した瞬間、ものすごい快感に包まれるとしたら、どうだろう。

そうふうに、つまり、今とは逆に生まれついたとしたら・・・

人間は、相手を変えようと思うことに夢中になるだろうね



でも、実際は、そうならない。
相手の変わることを願うと、すぐに、苦しくなる。
願った瞬間、瞬時に、もう本当に、

「正しく同時に」、だ。


その正確さは、機械的、といってもいいくらい。

(ひとに嫌悪感を抱いた時を思いだしてみたら、実感できる。ほんとに、すぐ、いや~な気分になるから)





これは、なにか、わけがあるな、と思う。

だって、ものすごく、はっきりしているもの。

相手を変えようと思った瞬間、やな気分になり、落ち着かなくなる。

だれにだって、よくわかる。



これ、そうとう、無理があるんだろう、と思う。

その無理が、道理として、絶対的に無理であることを、

「切なさ」「悲しみ」「非力感」「居直り感」「責めたくなる気持ち」「スッと通じないもどかさ」その他、

もろもろの、やっかいな感情が、・・・きちんと、証明してるではないか。

無理でっせ、と。

幸福になるには、無理がありまっせ!!、と。





相手を変えようと思った瞬間、

「あんさん、そりゃあ、無理でっせ!」

という具合に、なにかが、教えてくれようとしている感じがある。


この、無理でっせ、を伝えてくれるのは、わたしにとっては相当に厳しく温かい、愛のような存在である。


といっても、イメージは、三角帽子の小さな小人(こびと)なんですが・・・。




なんで人が怒るか、というと、この三角帽子の小人が、

「あんさん、そりゃ無理です、無理でっせ」

と、何度も話しかけてくるからだろう。

そして、この、関西弁を話す小人に向かって、

「うるさい、無理じゃない、無理じゃない」

と、あらがっている、突っ張っている、だだをこねているのが、怒りなんだろう。


だとすると、怒っているひとは、本当は、相手に怒っているのではなく、小人に対抗しているだけだ、と見えてくる。


つづく。

1

蒙古斑の少年

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近所の温泉。

私は湯につかって、のんびりと来し方、行く末を案じておりました。

ふと目の前を見ると、小さな男の子が歩いている。

わたしはつい、見てしまう。

いや、ホントは、見る気ないですよ。
でも、目の前をつーっと通っていくのだから、ま、仕方なしに、見てしまう。
目を閉じない限り、見ざるをえない状況だからね。


すると、おしりのふくらみのあたりに、目をうばわれた。

そこになつかしい、蒙古斑を見たからであります。

たしか、自分自身も、同じところに蒙古斑があったんじゃないかな・・・。
わたしは目を閉じて、記憶を思い出そうとした。

彼のお尻の、左側の、ちょっと腰骨に近いような不思議な場所に、かすかに、斑がある。
たしか、わたしも、かつて同じようなところ、左側の腰のあたりに蒙古斑があったのではなかったか・・・。



蒙古斑大和民族以外、モンゴロイド系の人、ネイティブアメリカンにもみられますね。

ところが世界的には知らない人もまだ居て、ヨーロッパの方には、

「これは児童虐待のあざの痕ではないか!?」

と不安に思う方もいらっしゃると聞いた。
ご安心ください。これは、母親から生まれる際に、すでにみられるものです。




さて、私は蒙古斑をあまりじろじろと見ていると変に思われてしまうから、出来る限りすみやかに目をとじて、瞑想に入った。

湯の音が聞こえる。

隣のおやじさんの、くしゃみが聞こえる。

そして、自分の心臓の音が聞こえる。


蒙古斑の彼は、たしかに、自分と縁のある存在だろう。

いつの頃からか、この大和の国、瑞穂の国、秋津の国に、人がにぎやかに住み始めた。
その時から、この子とわたしとは、縁ある間柄であるよう、運命づけられていたのではあるまいか。
こうやって同じ湯につかり、同じ時をすごすことに、なっていたのでは?


それも無理のない話、と私は思う。

少年と、わたしとは、同じ蒙古斑を通して、たしかに、つながっている。

温泉


裸の背中を、見渡してみた。
日帰り温泉の洗い場の、腰掛にすわった背中はどれも、生きて動いている。
どの身体も、筋肉がもりあがり、背中をこすったり、頭をぬらして洗ったりしている。


ウーファーさんのような海外から来た、諸国の人もいるけれど、蒙古斑があろうがなかろうが、こうやってまじめに身体を洗い、髪を洗って、湯につかっている人たちと、わたしはつながっていた。

蒙古斑の子は、熱い湯が苦手だと見えて、なかなか湯につからず、足の先だけつけている。


男風呂は、だれも、なにも、しゃべらない。



男風呂というのは、なぜこうも、静かなんだろうか。
子どもも自然と、口を閉じて、静かに過ごしている。

老人たちは、すべてに無駄がない。
所作ふるまいのすべてが、一直線のゆるぎないもの。
かつて、その尻にあったであろう蒙古斑はすでに見えなくなり、ずっと以前は少年だったこの老人たちは、今や、銭湯の達人となった。
寸分の狂いもなく、時間の無駄もなく、最低限のスペースで、己の要求するすべての所作を、終えることができるのだ。見事な世界!



そのすべては、無言のまま貫かれ、最後に、勢いよく、パシャッと音がする。
これは、「終わったよ」という合図であり、告知であり、自分自身が汚していた場所の「清め」の「水流し」である。


そして・・・


カコーーンーー・・・


(桶をひっくり返して置く音)



ほうら、エコーを響かせて、聞こえてくるでしょう?

ここまでくると、芸術だという気がする。
これが、日本中の銭湯で、老人たちが行っている、銭湯の作法なのだ。



蒙古斑の少年も、わたしも、老人も、

みんな、同格。つながっている。

バレンタイン、ウイスキー入りにご注意

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「いいな、大人はお酒を呑めて!」
                             
このセリフのあと、つづきがあるのです。
なんだと思います?
                            
「いやなこと、忘れられるんでしょう」

・・・

休み時間、ひまな子が教室の前に集まってきて、おしゃべりをする。
そこにストーブがあるからで、私は次の時間の授業の準備をしたり、プリントのマルつけをしたり、している。

すると、バレンタインデーでチョコレートをどうするこうする、と話が出た。

「中には、ブランデー入りのお酒が入ったのが売ってるから注意してな」

とつい余計なことを言ったら、冒頭のセリフがあった、というわけ。

「うち、お正月に、ちょっとだけ飲んだよ」
「えっ?」
「しょうちゅう飲んだよ」
「へー」
「うえって吐きそうになった」


そこからひとしきり、酒はなんのために飲むか、という話題になる。


「そうねえ。なんだろう。大人には美味いからかなあ」

「ちがうよ。まずいもん。飲んだけど」
「大人はいろいろ大変だから、飲んで忘れないと寝られないって言ってたよ」



子どもたちの結論は、きっとなにか、忘れたいことがあるんだろう、という、なかば同情、憐れみを帯びた結論でありました。

その一方で、自分たち子どももいやなことがあったら、ジュースで忘れられたら最高だ、ということになった。




へー、子どもでもいやなこと、忘れたいこと、あるんか、と思う。

いやなこと、きらいなこと、不安なこと。人間は相当、これらのもの、もてあましているのだろう。

そのほとんどは、人間関係のことじゃないかな。

あの人から、悪く思われた、悪く言われた、ダメだと言われた、馬鹿にされた・・・。


ところが、人間は、

Aのものが、Aに見えたり、Aに見えたり、Aに見えたりする。


AをAと見る人は、ほとんどいない。

0211-0

【夢】心頭滅却すれば

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護摩壇の炉の中に、炎が勢いよく燃えている。

「はよう、滅却(めきゃ)れ!」

にらみつけているのは、背の高い、いかにも力の強そうな僧だ。

足元が冷たく、じんじんとする。地底から雪氷がかみついてくるよう。
ところが顔は、噴き上がる炎に照らされて、熱くてたまらない。

このアンバランスな身体の状態で、追いつめられた精神状態が、さらに緊迫していく。


僧が、鬼とブルドッグを足して二で割ったような顔をこちらに向けた。

夜空を、怒号が響きわたる。

「これ!はよう、滅却(めきゃ)らんかッ!!」


それを合図にしたかのように、金堂の方から荒行に向かう者たちの、読経する声が重く聞こえてきた。

心頭滅却すれば火もまた涼し、心頭滅却すれば火もまた涼し・・・」

伽藍の方を見ると、それぞれに松明を手にした苦行者たちが、俯きながら滝の方へ歩いていく。これからみぞれの降る中を、霊山へ滝修行に出るのだ。
あまりの寒さに、顔が緑色になってしまった者もいる。
それでも、すでに表情を無くした苦行者たちは、歩みをとめることなく、躊躇なく進んでいく。


あの者たちは、すでにこの炎の苦行を終えているのだ。
私も彼らに続かねば・・・。

歯を食いしばって意を決し、威勢よく燃え盛る焚火の上を、まさに渡ろうとしたときだった。

「もう、メキャはりました~?」

妙に甲高い声が聞こえた。
振り向くと、きっちり丸く剃り上げたイケメンの美坊主がいた。

美坊主は、少し腰をかがめ、横顔でこちらを覗き見するような格好になりながら雪駄の音を弾ませ、軽やかな足取りと共に、火の方へ向かってきた。

その美坊主を見ると、さきほどまでえらく濁った太い声で私を叱りつけていた僧が、頬をゆるませて声まで柔らかくし、

「いやあ、コイツ、ちっとも滅却(めきゃ)らんので困っとりますわい」

「あら、そう」


切れ長の目で、睫毛を瞬かせながら、ちらっと流し目をくれると、美坊主が私に向かって言った。

「早い所メキャってもらわないと、お話もできないでしょう?よろしくネ」



私は、もう何がなんだか分からないが、ともかくこの場から逃れなければならない思いに必死になり、自分に向かって、

「早く、滅却(めきゃ)らないと、メキャらないと!」

とつぶやいている。



再度、決心して、燃え盛る炎の中へ飛び込もうとした。

腹に力を蓄え、息を思い切り吸い込んで、

「滅却(めきゃ)りましたァーッ」

自分でも信じられなく程の大声を出しながら、まさに焔の中に飛び込む寸前、ブルドッグ僧が巨大な手のひらで、私の顔面を押し戻した。
おかげで顔面を殴られたほどの痛みでめまいがし、その場に倒れこんでしまった。

ブルドッグは、言った。

「滅却(めきゃ)れますか?」

くらくらした頭で、ぼうっと眺めていると、ブルドッグはやれやれ、といった表情で再度、

「もう一度、聞きます。・・・あなたは、滅却(めきゃ)れますか?」

事務的な声で、二度、繰り返した。


私はなぜか、突如としてこみ上げてきた口惜しさと共に、

「なんで、おれは、滅却(めきゃ)ろうなんて、思っちまったんだろう」

と後悔しはじめていた。



・・・と、これ、先日、見た夢です。
なかなかのインパクト。

・・・たぶん、疲れているんだと思います。


心頭滅却なんて要らない。

炎

相手の期待に応えない自分で、当然

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他人の視線が気になるとか、怒られるのがいや、とか、苦手とか。
強く言われるのが苦手、上司が苦手。

そういう子、多い。
人間関係に疲れるとか、人間が苦手、とか。


で、どうやって人間関係を楽にするかっていう話で、
人間関係の呪縛や疲れから自分を解放するため、というので、

とあるセラピストの言葉に、

「相手が悲しむのを見たくないからって
期待に応えようとしないこと。

相手が怒るのをみたくないからって
機嫌を取らないこと。

相手に喜んで欲しくて言って欲しい言葉を言わないこと。」


というのがあるんだって。


↑こういうの、なんか、ムツカシ~ッ!!!





これ、取り組もうとすると、おそらくかなり高度というか、負担になるんじゃないかな。
だって、感情のコントロールしろ、って話だよね。

それ、無理、むり、ムリ!

それに、ケチケチすんなって思う。
期待に応えたり、機嫌を取ったり、言ってほしい言葉を言ってあげたり・・・

↑こういうこと、するな!なんて言われたら、逆にくるしい。



どうしたらいいかというと、相手と自分をひっくり返した場合のことを考えて、
相手の期待に応えようとしない
 相手が自分の「期待」に応えないからといって自分は腹が立たない

相手の機嫌をとらない
 相手が自分の機嫌をとってくれないからといって自分は腹が立たない

相手の言ってほしい言葉を言わない
 相手が自分の言ってほしい言葉を言わなくても腹が立たない


・・・と、
こうなれば、解消する。


だって、自分が腹立たないようになれば、相手が腹を立てて当然、という思いが、消えちゃうもの。
やっていくうちに、「このやり方のほうが早い」、を実感できると思う。
自分が腹が立たないから、「相手が腹を立てて当然」とは思わなくなっていくから。

でしょう?
自然と、そうなる。


相手の期待に応えようとする行為を、やめるのではない。
そういうことは、しない。
つまり、自分を抑える、という方法はとらない。
そのかわり、

相手が自分の期待に応えないことは当然だと。

⬆︎これがスッキリしていれば、うまくいく。


逆のやり方の方が、簡単。
結局、自分が他の人の言動に腹の立たない人になれば、他人の価値観からも解放される、ということ。


そして、相手の期待に応えない自分で、当然ちうこと!!
恥じることなんて、なにもない!!
相手になんと非難されようが、たとえ非国民と言われても、なんも問題なし!!



あら、結局、「怒りの問題」になっちまった。






だれが吸っても、怒らない花。
蜜がなくなっても、腹の立たない虫。
セセリの吸蜜