叱らないでも いいですか

「叱らないで、子どもに伝える・通じ合う」 小学校教師、『新間草海』の本音トークです。

扇風機を強制的に涼しく

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うちにはクーラーがなく、扇風機しかない。

朝晩がわりと冷えるから、それでOKなのである。

しかし、日中の昼間。
夏休みの猛暑の中では、これはキツイ。



うだるような陽炎がたちのぼる部屋の中で、アタマに思い浮かぶのは、灼熱の砂漠、シルクロードの幻想だ。
まるで、マルコポーロ。らくだの背中の中に、冷たい水がちゃっぽんちゃっぽんと、しまわれているのを想像して、思考が停止したままだ。

気が付いたら、さっきから、
「水、水」
しか、言ってない。


そうやってよく見てみると、この3時間ほど、家族のだれも口を聞いていない。
全員、ただひたすらに、水道の水をゆーっくり口に水を運び、目をぎょろぎょろさせながら水を飲んでいる。



これをみて、はじめて、

イカン

と思い始めた。

死ぬかもしれない。




それで、わが家の唯一の冷房機器である、扇風機を加工することにした。

生暖かい風、つまり温風を吹きだす、でかいドライヤーのような効果しかない扇風機。

これを、変える。

生まれ変わらせる。



熱風ではなく、涼しい風を、送りだせる扇風機へと、進化させる。

なんという尊い決意であろうか。



思い浮かぶのは、牛舎だ。

夏、ひたいに汗をうかべつつ、牛舎の床管理をしていたが、数か所のミスト扇風機によって、かなり冷えた空気が届く場所があった。そこだけは、まるで砂漠の中のオアシス。つめたい空気が顔に当たって、とても心地が良かった。

水分の気化能力は、かなりのもの。効果は、ある。

そこで、扇風機の前に、氷をしばりつけ、そこから冷たい空気がこないかどうか、と。
実験をしてみた。


氷をしこたまビニール袋にいれ、扇風機の前に箱に入れて置いた。

「うーん」

微妙だし、第一、箱が邪魔くさい。

そこで、もう、こんなふうにつるしました。

氷はすぐに溶けちゃうので、これ。強力タイプの保冷剤。

せんぷうき2



部屋の温度は、35℃。

扇風機1



ようし!!!

風が前にこないことを除けば、心なしか、わりと涼しい感覚がある!

強風にすると音が響くが、なんとなしにさっきより、風が冷たくなってくれた気がする!!





夏を乗り切りましょう!
皆の衆!! がんばりましょうぞ!!!

ふと、やってみたくなるもの

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老人が消えた、というミステリー騒ぎがあった。(前回参照)
子どもというのは、毎日何かしらの新鮮な話題に興味を持つ。
だから、同じ話題が何日も続くということが少ない。

このミステリー話も、その時だけの盛り上がりで、それ以外はさしたることもない。すぐに消えていった。

その後、私が何回か、このことについて聞きただしていたためか、Fくんが自らの考察を教えてくれた。
それは、何日後かにFくんがまた見かけたのだが、その日、オジサンは電信柱のところにもたれかかるようにして立っていたそうだ。ところが驚くことに、その姿はまったく灰色の電信柱に溶け込むようだったので、周囲から気づかれないほどだったらしい。

「たぶん、電柱でオジサンの姿が見えなくなってたと思う」


矢追純一が作り出した、UFOに連れ去られる人間のような、ワクワクドキドキするミステリーがひそんでいるかと思ったら、そんな結末で、なんとも残念だった。




ところで、人間、ワクワクドキドキだけがもっとも大事かと言うと、そうでもない。
ワクワクドキドキが生まれてくるためのベースとなる部分で、世間のモノサシや人間本来でないモノに毒されている場合もある。
人を騙すことにドキドキ感が湧くようになっても、仕方ない。
自分自身の、今の心の状態を、どんなものかといつもいつも、注意を払いながら、居たいものだ。



死ぬときに、一番後悔するのは、

なぜ、自分自身で居なかったのか

だそうだから。

ワクワクドキドキもいいし、
それが無くてもいい。

ふと、やってみよう、という、静かな感じも、いいかもネ。

福寿草4G

写真は、福と長寿を約束する、『福寿草』。

人は何かをするために生まれてきたのではない。

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充実感や達成感を得るために生まれてきたのでもない。

そもそも、何か事がらを進めたり、達成したものを得るために生まれてきたのではない。

では、なんのため?


人生は、
何かをしてはいけない、というのではない。
しかし、何かをするため、ではない。

では、なんのため?




なんのため?と、問いたくなるのは、なぜか。


われわれ大人は、
社会からの「要求」には必死で応えようとする。
人生からの「問いかけ」には耳を貸さない。
だから、常に、
強い緊張感と切迫感、焦りを感じながら、生きている。



「要求」には関心が無く、
「問いかけ」には真摯に向き合う、というのが、子ども。
だから、真剣に遊んでいる。


毎日すれ違う一年生が、いかにも幸福そうに雲を見上げながら歩いていくのを見てると、

教師も時折、こうやって人生を考えるようになる。
自分は、たった一度の「人生」から、なにを問いかけられているのだろうか。


ひとの人生は、社会よりも価値が高い。
それぞれの人生の価値が高まると、結果として、社会全体の価値が高まる。

人生の価値は、「なにをしたか」ではない。
「なにをして過ごしたか」でもない。
「どこで過ごしたか」でもなく、
「だれと過ごしたか」でもない。
そこには、なにもない。



@黄色い花に霜

秋の空を見て思うことは一人ひとり違う

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おなじ空を見ても、一人ひとり、思うことが違う。

「やっぱり、秋だねえ。さびしそうな気配になってきた」

さびしそうに感じている人は、なぜそう感じるのか。

「いやあ、きれいで気持ちのいい天気だねえ。山日和だよ」

山の大好きな人だ。

みんな、自分の心のフィルターで、空を見ている。



苦虫を噛み潰している顔をしたダンナさんをみて、

「あれ、いつもと表情ちがうな」

と思うだけの奥さんがいる。

しかし、別の人は、夫の表情を見て愕然として、

「怒ってるんだわ。きっと私の何かの態度が気に入らなかったに違いない」

と自分の至らなさを反省しはじめ、行動に出る。

機嫌をとろうとしたり、自分もちょっとむっとしてみたり、
あるいは
謝ってみたり、気を使ってみたり・・・。

なぜそのように受け取るのだろう。

ダンナさんは、さっきから、歯が痛くてたまらないだけなのだが。





事実を見ないで、「意見」してばかり。

「あなた、さっきの話のことで、わたしを責めているんでしょう」

それは、ただあなたの意見に過ぎない。
事実は、歯痛。

みんな、事実を見ようとしない。

意見だけを取り入れようとして、意見だけをもとに考えて、意見を言うことで生きていくのが本当だと勘違いしている。

しかしその意見は、ことごとく、自分のフィルターで、出来ているのだ。

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リア充について

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リア充』、という言葉があって、わたしはずいぶん面白い感じを受ける。
カタカナと漢字がくっついているのもユニークだし、「リ・ア・ジュー」という、さいごの音感の、

ジューッ・・・

という音も、とても面白い。


夏休みで少々ボケてきたのか分からないが、ちょっとあまりにも自分が無気力になってきた感があって、最近、とても心地がよい。

頭の中を空っぽにして、ふんわ~りと漂うように歩いていると、それを懸念した嫁様がしきりと

「ダラダラしてないで、ほら、洗濯ものでも畳んでッ!」

と、私を働かせようとする。

そして、

「そんなふぬけたような、夢でも見ているような顔でいるの、やめてよネ」

と注意するではないか。


わたしはそれを聞いて、ニタニタし、

「馬鹿もの。吾輩は心身ともに充実するあまり、こうしてテレビも見ないし本も読まずに、ボーッとしておるのだ」

嫁はあきれかえり、

「まだ、座って高校野球でも見てくれた方がいいわ・・・。何にもしてないのを見ると、なんだかイラつく」

とぼやいて、さらに勢いよく、台所でジャーッと何か洗っている。



このやりとりを振り返りつつ、わたしは考える。

元来人間は、『リア充』になればなるほど、ちまたの情報が不要になるのではないか?


わたしは、あまり高校野球に興味がわかない。
オリンピックにすら、興味がない。
たぶん、2020年の東京オリンピックも、テレビのニュースも見ないし、あまり興味がわかないまま、いつも通り、いつの間にか終わっているだろう。そして、妻に言うと思う。

「あれ?オリンピックって、終わったんだっけ?」



他の人が何をしているか、何に精魂を傾けているか、それが気にならない。

そして、他の人のやり方や、方法や、目標や夢、というものについて、ぜったいに

ケチをつけないでおこう、と思う。

相手だって、尊重してほしいと思っているはず。

自分だってそうだからな。




だから、逆に、ケチをつけられても気にならない。無視できちゃう。

「困る!」

と言われても、全く、平気。





ケチをつけたりつけられたり、なんて、

もう卒業!

人間だもの。





 ↓ コーラをのめば、君もリア充になれる!!(ただし山の上は200円だった。ホント・・・)

ジューッ・・・

山の上は200円コーラ

人に愛されている実感

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子どもたちが夏休みになって、学校へ通ってこないので、我々先生たちはちょっとだけ時間ができる。

それで、わたしは最近、よくスーパーへ買い物に行くようになった。
夕方、定時に退勤することができるからで、まだ空の明るい時間にスーパー店内を歩いていると、

「うぉ、こんな時間に買い物できちゃっているよ」

と、テンションが上がる。

振り返ると、毎日どんだけ遅くまで仕事してんだろう、と自虐的になるけどネ・・・。


スーパーで、親子で買い物をしている姿も目に付く。

いいねえ。

私がカレーのルウを買おうとしていると、一人の4年生くらいの男の子が走ってきて、同じ売り場の棚の前で選び出した。

ああ、この子もルウを選びに来たんだな、と思ってみていると、すぐ後ろから、同じように息せき切って、妹らしいのがついてきた。

「お兄ちゃん、どれ選ぶの?」

息をはずませながら、訊いている。


わたしがハウスのジャワカレーか印度カレーか迷っていると、兄の方がS&Bゴールデンカレーの箱を手にして、

「これじゃない?いつものやつ、これだよね?」

と言った。

妹はそれを見て、「あ、そうそう」と言ったかと思うと、

「あ、こっちじゃない?」


手にしたのを見ると、
『プレミアムゴールデンカレー 中辛 』

とある。

たしかに同じようなパッケージで、同じような英語で書いてあって、おまけにどちらも金色であります。

わたしはそんな商品が発売されていたことを知らんかったから、

「おお、なんだプレミアムって・・・わけわからんけど凄そう」

と思ってみていると、兄妹はしばらく言い合ってから、その金のプレミアムを手放した。
そして、ふたりでノーマルなゴールデンカレーをしっかと抱えて、売り場を去って行った。

どうです?

二人でちゃーんと、きちんと、考えて動いているでしょう。

わたしゃ、感心しましたよ。

子どもだって、なにがいいのか、我が家の食卓を思い浮かべて、最善を尽くそうとしてふるまうのでありますよ。



私は結局、さんざん迷った印度もジャワも選ばず、黄色く「広告の品」と表示されてたこくまろカレーの箱をカゴに入れながら、

「なんか分からんが、いいなあ。あの兄妹」

と感慨にふけったのであります。


どんな家庭なんだろうか。

きっと、兄妹とも、家庭の温かみを、ぬくもりを、たしかに感じて生きているのでしょうなあ。

わたしは激安商品を手に入れた喜びよりも、その兄妹に会えたことが嬉しかった。





大人にとってもだけど、子どもにはとくに、大きいことだろう、ね。

「愛されたい」

というのは、だれしも、願うこと。

というか、人生、それが一番大事。
シンプルだけど、誰しも心の底で願っているのは、

『愛されたい』

ではなかろうか。




で、この実感があることが、人を元気にし、勇気づける。

応援されると、人はパワーが出るらしい。

テレビの実験では、なにか重いものを引っ張っている人が、一人でやっているときはどんなに頑張っても引っ張ることができない。

ところが、そこに応援隊が現れ、横に立って、

「がんばれー!」

とやると、驚くべし、引っ張って動かすことができたのである。

手を貸すのではなく、声をかけられただけで、人はパワーがふくれあがるのである。




声と言うのは、恐ろしい。
いや、声、というのではなく、「声」によってその存在を感じる、

「愛」

によって、人は動くのでありましょう。



やはり、「愛されている」から、その実感があるから、勇気が倍増する、ということは大いにあるのだと思う。

逆に考えると、

自分自身が常に、

「愛されている」

というところで生きていられると、これはものすごいモチベーションの高さと、たしかな勇気を獲得することになる。

「自分は愛されている、という実感を常に24時間、たしかに感じるだろうか」

これが自分の能力発揮を決めている大切な心の状態なんだろうと思う。




さて、愛すべきクラスの子どもたち。

彼らは私から、「愛されている」と思ってんのだろうか??

いや、そんなことはどうでもいいのである。

家庭で、親から、大事に愛されている実感を得ている子は、先生からもきちんと、「愛されている」と思うものなのである。なぜなら、スイッチが同じだからだ。

「愛されている」スイッチを確実に押している子は、空を見ても星をみても、土を見ても虫を見ても、海を見ても・・・何を見ても、自分とのつながりを思うことができるのだろう。
そして、そのつながりを予感しつつ、「愛されている」と思うことができる。

カレー売り場

不満が無いから、

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不満が無いから、大地と話をする。

不満が無いから、太陽が挨拶してくれる。

不満が無いから、向こうの道を

だれかが横切る気配が、分かる。

不満が無いから、みんなが

何をしようとしているか、感じ取れる。



こころが身軽であること。

なにも持たなければ、受けるばかり。

ナミテントウの休憩場所