被災地からメール 学校のおかげ
仙台で大学時代を過ごし、そのまま仙台の人となっている高校時代からの友人がいる。
メールがひさしぶりに届いた。
仙台で苦労しつつも復興に向けてがんばっている、と。
気仙沼市の友人が未だに行方不明である、ということ。
被害が甚大であり、小学校も大きな傷跡を負った、ということ。
彼自身も、気仙沼の小学校を起点にして復興活動を行っているということ。
そこで、学校への感謝が記してあった。
「マスコミにはほとんど流されないが、秩序がきちんとしているのは、ここにいる被災者がほぼ全員、学校生活を体験しているせいではないか」
というのだ。
「大きな騒動や泥棒、順番を無視する行為、われ先にと他の不幸を足場にして自分の得を、といった行動がほとんど見られない。日本人だから、と多くのマスコミが記事にしている。多くの人がその記事の論調に賛同している。」
でも、と彼はつづける。
「日本人だから、というふうに書く記事が多い。しかし、自分はもっとちがった感想をもつ。それよりも、この避難所が学校である、ということが大きいのではないか。小学校の体育館で、子どもたちとともに過ごす市民が、われ先に、というのではなしに、順番を守ろうとするのはごく自然なことと映る」
さらにつづく。
「そして、なにより肝心なのは、この避難生活を送っている市民の多くが、小学校での生活を経験しているのだ。炊き出しがあるときは、みんな食器をきちんとそろえて待つ。順番があれば、それを守る。ごみは、きれいに整理される。待つ場面があれば、「待ってください。あと何分くらい」と、頼んでもいないのに、みんなで声をかけあっている。誰かが全体に大事な連絡をするときには、きちんと黙って聞こうとする。」
こうしたことは、みんな、小学校で習ってきたこと、その経験があるからではないか、というのだ。
「暴走族もまだいるんだよ。この地域。で、その子たちも、きちんと並ぶわけ。また、着てる服とかだらしないし、見た目もヤンキー、という子が、体育館の入口をきちんとぞうきんがけしている。みてたら、ちゃんとぞうきんもしぼっている。ぞうきんを、ひろげて、きちんと干している。これは、小さいときに家でも学校でも、そうした生活をしてきた体験があるからだろう。」
わたしが小学校の教師をやっていることにからんで、
「全国の小学校の先生に、感謝の念が湧いてきた。その光景を見てて」
と、記してあった。
教育の効果は卒業後に出る。