なぜ戦争をするのか その1
戦争、とふりかぶらなくても、人と人とがうまくいかなくなる、なんだかしっくりこなくなる、距離が生じてしまう、ということについて書く。
「戦争なんて大きく出て、いったいなんだ。たかだか、小さな個人と個人の人間関係の話じゃないか」
そう。
小さな、人と人との関係について。
これは20代の後半に、とあるふとした思いつきから、
「こういうことをみんなで確認し合っておれば、いさかいや、人と人との隔て、というものは解消するんでないの」
と思った。
「もしかしたら、人と人とを、隔てる心が解消すれば、戦争なんてのもぜったい起きないんでないの」
とも思った。
ただし、このことは非常にわかりにくい。
説明しても、たいていの人は「・・・」とか、「へえ」とか、ちょっとましな反応でも「そんなふうに思う人は少ないんでない?」
というくらいで、すでに説明するのに私はくたびれている。
そもそも、近しく親しい知人の数人や妻に話したくらいで、その後はほとんど話したこともない。
でもなんであえて、ブログなんぞに書こうと思ったかと言うと、先日、NHKで二―チェのことをやっていたからだ。
ニーチェは、聖書中心の道徳観念や社会常識、判断基準で生きていくことにマッチングしない心の動きがあることから、
「神は死んだ」
と言い、ツァラトゥストラという人物に語らせることを通して、新しい「聖書に代わる、人間のもつべき基本理念」を世に示そうとした。
世の人はニーチェを評価せず、晩年ニーチェはさみしく死んでいく。
理解されずとも、世に出すことは意味があるな。
だって、後世の人が、二―チェを学ぼうとするんだもの。
そう考えた。
ようするに、だれかに言いたくなった。
さて、今からここに示すことはあまりにも単純で、ほとんどの人は
「え、それだけ。だからなんなの」
と思う。
ところが、当時、28歳だった私は、このことを思いついたときに、あまりにも衝撃が強く走り、笑いがとまらなかった。
2日くらい、にっこにこしながら過ごしたと思う。
その後、何度も自分の心に去来する、あらゆる事象を、その原則にあてはめては考え直し、そのつど感動する、ということを繰り返した。
ただ、そのことがあったので、人間関係が劇的に変化したかというとそうでもなく、人生の展開が魔法のように変わったかと言うと、そうでもない。
劇的には変化しないが、こんなふうになった。
○人のことがきらいでなくなる。
○きらいな人がいなくなる。
○すぐに仲良くなれる。
○初対面の人でも、とても親しい気がするようになる。
○表面的なもので、反応しないようになる。
結果、あまり疲れない。
人とけんかするなどして、自分の心を波立たせている場合に、それを落ち着かせるのには非常にエネルギーが要ると思う。
わたしの母親は非常に血の気の多い人で、なにかにつけ癇癪を起していたから、クールダウンする大変さと苦労を、はたで見ていてよく知っているつもりだ。
その、クールダウンをわざわざと、無理とする必要が無い。
これは楽だ。
わたしは28歳のころは営業の仕事をしていて、初対面の人にも話しかけなくてはならない仕事だったが、とても楽しかった。(会社は斜陽化していて、やめなくてはならなかったが)
会社をやめなくてはならない、となったときも、ほとんど落ち込まず、自分を不幸とも感じなかった。
そのシンプルな原則を感じるたびに、これ以上ないくらいのゆったり感というか、地面の一番底の固い地盤に足をつけている感じがあったから、不安が生じない。
こういう話をすると、いわゆる「引く」人もいる。
「宗教ですか」
と感じる人もいるし、マーフィーの法則のような、ちまたに流行する現代版心理操作のようなものだと感じる人もいる。
でも、あまりにも単純で、かんたんなことなので、そういったものともちがうと思う。なにしろ、この私が考えることができたのだから。
40歳になる、愛知県の片田舎に住む、ただの小学校教師。
その私が、考えていることで、本当にたいしたことがない。
それで、たいしたことがないので、他にも同じ考えをしている人っていないかな、と思って探し続けている。
ところが、まったく同じことを言っている人が、見つからない。
いやいや、自分が知らないだけで、同じことを言っている人がかならずいるにちがいない。と、ずっと思い続けてきた。
実際に、そういう人もいるにちがいない。
それか、あまりにも当たり前のことすぎて、わたしが彼らから抽出できていないだけかもしれない。
斎藤一人さんが近いかな、と思った時もある。
一人さんは、困らないんだ、となにかの著書に書かれていたので、
「そうだ!同じだ!」
と思ったことがあった。
でも、一人さんのメッセージはそれこそ多岐にわたり、何百何千というメッセージを出している方なので、私と同一、というわけでもないだろう。
また、わたしの言いたいことを、ずばりと書いているわけではない。
もう一人別の人で、小林正観さんという方がいる。
知人がたまたま
「あなたに見せたいから」
と持ってきて、貸してくれた本だったが、この方の本の題名に、
「宇宙が味方の見方道」という本があり、
宇宙が味方、というのは同じだな、と思って読んでみた。
宇宙、なんていうと、ちょっとオカルトチックだし、なにか妙な雰囲気も感じるが、まあ、言ってみればそうか、そういう言い方にもなるかなと思った。
小林さんもやはり斎藤一人さんと同じで、世の中の経済から教育から医療から、さまざまなメッセージを出されている。また、ずばり、わたしの言いたいことを書いているわけではない。だから私とはちがう。
わたしは、一つだけだ。
それを、あまりにもおこがましいからこんなふうには書いてこなかったが、盆だし、昭和の戦争の記憶がテレビで語られている時期だし、わたしも夏休みになって時間が余っているので、書いてみている。
なぜ、人と人とは、隔てがあるのだろう。なぜ、分かち合えないのか。なぜ、対立するのだろう。なぜ、一つに溶けあえないのだろうか。
(つづきはまた)