叱らないでも いいですか

「叱らないで、子どもに伝える・通じ合う」 小学校教師、『新間草海』の本音トークです。

尾木ママの「万引きでも叱らない」に議論沸騰?

尾木ママ「万引きしても優しく声かけて」 「叱らない子育て論」がネットで論議に

尾木ママに意見する前に、この文章に違和感がある。

万引きしても

この、「しても」は、おそらく、記者や編集者の、勝手な作文なんだろう。

尾木ママの主張からは、ここに、「しても」は、出てこない。湧いてこない。

尾木ママなら、こう言うはず。

「万引きしている子だからこそ」



万引きする子は、見つかるまで、やる。
心の底で、「助けて、見つけて、どうにかしてくれ」と思っているから。

その心中に、どう寄り添うか、ということがテーマなのに、

「叱ればいい」

としか考えていない人が多いから、こんなコメントが出てくる。

「そこは叱るところだろ」


つまりは、叱れば伝わる、と思い込んでいる人が、ほとんど、ということなんだろう。
それを思うと、半分、絶望的な気持ちになる。

叱る、ということが、伝わる、ということと、同じではない。

このことだけでも、よくよく焦点を当てて、間違えないように、うかつにならないように、調べ、調べ、本当はどうか、と究明したい。

叱る、ということで、本当に伝わるのだろうか。

叱る、が目的になっていないか。

叱れば大丈夫、というのだったら、その大丈夫、はどこからくるのか、その自信はどこからくるのか、そういう人に尋ねてみたい。「叱れば、本当に、大丈夫なんですか。心が通じあうのですか。」

よくあるのは、

「よい、悪い、という区別が、分かるようになるから、叱るんだ」

という主張だ。

私に言わせれば、それは、叱る、ということとは、まったく別物だ。

それは、叱る、ではなく、教える、だ。

語調をきつくしたり、表情を厳しく変えたり、威圧的、圧迫的、圧力的になることと、教える、ということとは、まったく異なることだ。

どこかで、ごっちゃにし、同じたぐいだと考え、なんとなく同じような感じ、いっそのこと、同じだと考えてしまえ、という乱暴で、手を抜いた、非科学的な態度が潜んでいると思う。

今まで威圧が必要のなかった子に、どうして急に、必要になるのか。

生まれてから、もしどこかのタイミングで威圧が必要になる子がいたとしたら、それは環境のせいであり、その子自身が責めを負うべきではない。

威圧が必要、というのは、武力が必要、というのと、根が同じ。

胸ぐらをつかんで、言うことを聞かせるしかない、というのは、もう古い。200年くらい、古い。




尾木ママは、

叱れば万事、大丈夫。

とは考えない。



叱って叱って、叱って、叱って・・・・


と、徒労を繰り返すのはバカだ、と知っているから、賢くやろうとしているだけ。
賢く、というのも変か、ふつうに、まともに、接しようとしているだけ。



尾木ママも、講演会を何百回やったって、著作を何冊も出したって、

「それは叱るところだろ」

というレベルの人に向けて、何しても、徒労だと思う。


根は、ふかーい、ふかーい。

人と人とが、心を通じ合わせる、ということ、人と人とが、共に過ごす、ということ。

人と人との、お互いの関係を、虚心坦懐、なんのわだかまりもなく、そのまま感じ取ることができなくては。


おそらく、その訓練が、要るんだろう。

子どものやることに腹を立てているようなら、大人のやることにも腹を立てるんだろう。

腹を立てるのは、相手のせいで、正常なことなんだ、と思っているうちは、もうどうやっても、逆立ちしたって、

「そんなもの、叱ればいいじゃんか!」


のレベルでSTOPだろう。

尾木ママの言うことの、意味は、おそらく、一ミリも、理解することができないし、とうてい、その世界には近づけないまま、生きていくんだろう。

それでも、一方に、尾木ママの言説に、

「なにかあるんじゃないか」

と心惹かれる人たちがいて、そういう人たちが、何かしら考えを深めていくことに、希望を見出したい。