叱らないでも いいですか

「叱らないで、子どもに伝える・通じ合う」 小学校教師、『新間草海』の本音トークです。

「運動会は無い方がいい」 について

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運動会が無い方がいい、というと、

「そんなものは暴言だ」 と一笑に付される。

しかし、よく考えてみると、学校にたとえば400人の児童がいたら、

その児童全員にとって、

「運動会が絶対にあった方がよい」

と言えるかどうか・・・。


その過程は無視して、

「ま、あった方がいい、という人が多いだろう」

という見込みで、やっているに過ぎない。
あくまでも見込みだから、断言できないはず。
今年は無い方がいい、という状況だって、あるかもしれない。
個々の事情、状態、その子の内面の状況によって。
今年は、まだその時期にあらず、という子だって、いると思う。


運動会っていいよね、というの、本当にその「運動会」こそが、彼らのユニークな力を伸ばしていくものなのか?その方法、そのやり方、その競技の仕方が、子どもたちの実際に、「ちょうど良い」ものなのか?

時間ないもン・・・。
そこまで考えてないヨ・・・。
運動会なんて、行事なんて、所詮そんな程度だ、という認識があれば。
このあと、行事って変わってくると思う。
なんとなく立派な感じ、見た目だけの運動会って、虚しさが漂うものだしね。




学校に現に通っている子ども一人ひとり。
子どものための、運動会。
この子たちのために、運動会をやろう、というのであれば、もっと形は変わると思う。

なぜ、長靴飛ばしを、やらないのか?

この1年生の子は、夏の間、長靴を飛ばすことに情熱を傾けていたのだ。
雨ばかり降ったこの夏に、お気に入りの長靴を買ってもらっていたから、この長靴を何度も飛ばし、驚くべきことに、20m以上も

遠心力

を使って、足を大きくカーブさせて振り回して、飛ばすことができるのだ。
そのことを、運動会で、ぜひ成し遂げたい、となれば・・・。



児童全員、自分だけの、特別な思いを持っているハズ。

一人ひとり、特別な種目に挑戦したいではないか。



隣の子に勝ちたい、ということだけを狙わせなくても、そういう種類の「勝ち負け」に、こだわらなくてもいいと思う。
自分の記録を伸ばしたい、ということに闘志を燃やせる子もいるのだしね。

運動会という行事は、すべて、「PTAに見せるもの」、になってしまっている。
授業参観と同じだ。
例年と同じ、今年も学校は、変わっていませんよ、ということを伝えるための手段のよう。

ほら、この通り。
私たちの学校は、いつもと同じ、変わっていません。
そして、世の中の常識から外れていません。
安心してください。


というメッセージが、運動会という劇場舞台の、幕を通して、透けて見えてくる。

しかし、これで、ほとんどの人が、

安心

したかのように錯覚してしまう。
なんでだろうネ。
こう聞くと、なにかしら、心の中に、「安心感」のようなものが湧く気がする。
「今年も、わたしらのよく知ってる運動会なのね。なら安心だ」と。




だけど、よく考えたら、おかしい。
本当の安心は、

目の前の子どもが、本当に育っているかどうか

ということなのに。
そのことについては、まったく分からないままなのに。






写真は、一斉に孵化して、『笹の葉食べ競争』をはじめた、ジバチ幼稚園の幼虫さんたち。
みんなで孵化しました