叱らないでも いいですか

「叱らないで、子どもに伝える・通じ合う」 小学校教師、『新間草海』の本音トークです。

子どもはプールが好きなわけ

子どもがプールを好むのはなぜか。

プールで、かならずしも、遊ぶわけではない。

わたしの授業は、矢継ぎ早の指示が出て、

どんどんと泳ぐ。

まるで水泳教室のように。



だから、

「あらま先生の水泳授業は、忙しすぎる!」

と文句が出てもおかしくない、と思っている。

「授業でこんなに疲れるなんて!プールなんだから、もっと遊べると思っていた!」

と、ね。



だけど、やっぱり、文句はでてこない。

かわりに、

「もう終わり?あしたも入りたい!」

である。



なんで、子どもはプールが好きで、水に入りたくてたまらないのだろうか。


そこで、教室で尋ねてみました。

「なんでそんなにプールに入りたいの?」

すると、子どもが答えてくれましたぜ。




「え?だってふわふわして、たのしいじゃん!」



へー、そうなのかー・・・

キーワードは、

ふわふわ!!




そういえば、ねこもふわふわ、ぬいぐるみもふわふわ、

カステラもふわふわ、ふとんもふわふわ、パンケーキもふわふわ、

雪もふわふわ、じゃぼん玉もふわふわ、




そういや、子どもって、

ふわふわがみんな好きだわ!!


ケーキ

職員室のお茶談義

20分放課、職員室で。


ふと見ると、

仲の良い先生が、

「このお茶、おいしいんだよね」

というような調子で、ごくごく、飲んでいる姿が目に映った。

教室の中って、暑いよねー・・・


子どもも水筒の水を飲んだり、

校庭の水道でも、ごくごく飲んでいるようだ。

われわれ職員もこの、むし暑い陽射しのもとで、水分補給につとめなければならない。


その先生が飲んでいたのは、

あまちゃづる茶

というものらしく、少し飲ませてもらうと、なんだかほんわかと甘い。

「いいでしょー。ストレスにいいんだって」

「へー」


そこへ、また別の先生が現れて、マイボトルを見せながら、

「これ、クマザサ茶っていうのよ」

という。



なんと、その方は、パンダのように、ササの茶を飲んでるのだった。

わたしは「笹茶」の存在は、知っていた。

なんだか、わたしのおばあさんは時折飲んでいた気がする。

子どものとき、祖母から飲ませてもらったときは、くそまずく、

「二度と飲むものか」

と思ったほどだったが、今回それを分けてもらい、

幾人かのそこにいた先生たちと共に賞味してみると、



あれ、意外に飲める!



と思った。

(慣れてくれば、いけるかも)






わたしはいつも、夏のシーズン中は、麦茶を持参する。

子どもたちも水筒を持ってきていることが多い。

教室の子どもたちに、

「なにが入ってるの?」

ときくと、ほとんどが「麦茶」であった。




麦茶に、麦わら帽子、麦の酒。

夏はいろいろと、『麦』に世話になるのであった。



麦、ありがと~!!


今日から、7月。

いよいよ、夏です。


hasu04

【道徳授業】悪口を言われて

悪口を言われて、

「お前、おれを馬鹿にすんのか!」

と怒鳴る。



あまり、子どもにはない、どちらかというと大人にありがちな会話かと。

しかしたまーに、子どもにも、そういうことがある。

たぶん、本とかテレビとかの影響でしょう。

「お前、おれを馬鹿にすんのか!」

もしかしたら、おうちで、お父さんが言ってるのを聞いたのか、

お母さんが言ってるのを聞くのかもね。

こういう言い方や、セリフを放った後のキレぐあいとか。

どこかで学習してる、ということ。




昨日も、AくんとMくんの間で、そういうやりとりがありました。

Aくん、大泣き。

Mくんも、なにか理由があったらしく、

「だって、Aくんがバカなんだもん!」と。




そこで、みんなで話し合う。

するとですね。

ふだんから話し合っていることが、じわじわと堆肥のように効いているのか、

「えー、そんなの、影響されなきゃいいじゃん」

という子がいる!



シュミレーションをして、

A 「 ばーか 」

B 「なにィッ!こんちくしょう!!ばかとか言いやがってッ!おれを馬鹿にすんのか!」



これを、何人かのペアに、やってもらう。

俳優のレベルがいろいろとあるが、名演技だと、自然と拍手がでる。

いわゆる、キレ芸、というやつに近い。


「どう?言ってみた人?感想は?」

「なんか、言うと、いやになる」



B のセリフを放つと、いっきに心のエネルギーはまっさかさまに急降下する。

「言った後、5から1に下がった」

などと、いう。



「なんで下がっちまうんだろうねえ」

「ばかって言われたから」

「それで、なんで下がるんだろ?」



あーだこうだ、と20分ほど、みんな好き勝手にしゃべって、

「ばかって言われたら、下がるよねえ」

「言い方にもよるかな」

「顔の表情じゃないの。にこにこしながら言われても、あんまり下がらない」

「お前の心の中を下げてやる、という感じで、ばーか、というと、下がる」




あれこれとしゃべったあと、

「やっぱ、どうしたって下がる」

という子と、

「いや、べつに、下がらない」

という子に、意見が分かれた。



下がる子は、

「いや、馬鹿にされたんだし」

下がらない子は、

「だって、下がりたくないから」

「ばかって言われてもサ、にこにこしてさ、いいよ、ばかでも、って言ったら」




こうやって話し合って、とくに結論もなく、

ふうん、どうしてバカって言われて、いやな気持になるのかねえ、と、ハテナのまま。



当初、この話題の提供者であったAくんも、最後には、

「おれも、馬鹿って言われて、下げるの、やめよっかな~」

「なんで」

「だって、下げるの、いやだもの」

だって。

面白いのは、この話の発端をつくった、Mくんの方が、

「そうだよ。馬鹿って言っただけなんだから」

と、すました顔で言ったこと。


IMG_0363

好きな人のためなら

以前から、この「感じ」は、言いようが無い、と思うことがある。

それは、子どもが、「意気揚々と」、手伝ってくれる時の、あの感じだ。

顔が、光り輝いている。

そして、目が、楽しくて仕方がない目になっている。

用事が終わりそうになる、その前に、すぐに、

「先生、これが終わったら、次は?」

と、聞いてくる。

他の子が頼まれそうになると、

「ぼくもやれるよ!先生!」

と、自分を指名してくれるように頼む。


そこで、

「あ、〇〇さんは、こっちやってもらおうと思うの。Mさんが、あっちに運ぶでしょう。そしたら、そのあとに、残っているこれだけを、別の箱に入れておいてほしいのよ」

と、自分の活躍場所が指名されると、これがもう、なんともうれしくて仕方がないようで、

「うん!わかった!!!」

と、もうさっそくとりかかろうとする。



この感じ、なんでしょうね、もう、


「あなたの言うことを、願いを、聞きたくて、聞きたくて、添いたくて、添い遂げたくて、一緒に居たくて、一緒に話したくて、一緒に見たくて、一緒に笑いたくて・・・・」


こんなような、オーラが、もうそこらじゅうに、いっきに、ばらまかれている感じ。

そして、そのオーラが強烈であるがゆえに、クラス中が、ものの15秒も経たぬうちに、そっくりそのまま、その雰囲気に染まり切ってしまう。



先生は、これが嬉しいのだな、というのを、発見したときの感じ。




学校では、これをやることになっている。

学校では、これをやることが、ルールになっている。

という、行き方ではない。

子どもは勉強をするものだ、クラスの仲間を大切にするものだ

という、道徳規律で、言うことを聞いている、というのとも、ちがう。






好きな人のためなら、とことん。


そんな感じがする。



そういう、子どもを相手にしていることの、


なんともいえない、「恐ろしさ、畏れ、怖さ」というものを、感じる瞬間であります。



(好きな人のためなら、というの、これが、人間の持つ、最大のパワーなのかもな、と思う)

 

 

f:id:aramasokai:20170708220748j:plain

子どもが先生や学校の世話をしてるハナシ

ずいぶん昔のことですが、学校で、「給食残飯グランプリ」というのがありました。

給食で、おかずやご飯が、残ります。

すると、その残滓の量をはかるんです。

お昼の放送で、

「今月、残滓の少なかったクラスは6年1組でした!おめでとうございます!」



いや、食べ残しが少ないのは、あっぱれなことです。

それは、それで、「素晴らしい」。

しかし・・・。




これ、おかずを残すと、担任の先生が叱るのです。

そして、缶をカラにすると、めちゃくちゃ褒められる。

すると。

今度は、そのことが、子どもたちの一番の関心事になってきます。




6年生ともなれば、知恵がまわるので、

残滓を巧妙に処分して、何食わぬ顔。

食缶をすっかり空にしてから、給食室に返してます。

給食室の先生から、

「さすが6年生、空っぽだね!!えらい!!」

なんて、言われて・・・。

(実は担任にナイショで、階段下のトイレに流してます)

つまり、食缶を空にするのが、目的化しちゃう。

子どもたちなりの、保身術なのだね。

でないと、先生たちの機嫌が悪くなるから。




残滓の多いクラスも発表されます。

すると、つらいですよ・・・。

ただ、放送で、

「◯年◯組は、もっと食べ残しを減らすようにしましょう」

と、言われるだけですが、

なんだか、全校にさらし者にでもなったみたいで、いやなものですよ。

放送を聞いて、いちばん、いや〜な顔をするのは、もちろん担任の先生。

子どもたち、その顔を見て、

「やべえ」と。




残さず食べるのは良いことだ。

そこまでは、分かる。

みんなの体が元気な証拠だもの。

だが、しかし。

つぎに、 「良いことだから、やれ」となるところが、ヘン。

上からかぶせていく感じが、ヘン。




アメとムチで、経営をしていると、

子どもたちはどうしても、逆の視点で動くようになります。



本当はその気もないことなのに、

〇〇しないと、先生の機嫌が悪くなる、

〇〇していかないと、先生が困る(おかしくなる)、

〇〇していかないと、学校全体として、まずいみたい。


と考えて、

「まあ、仕方がない。このシステムにつきあうか・・・」



これ、子どもが先生や学校の世話をしてるのですナ。


縄文時代25

職員室でも話題!ブラタモリの「愛知」編

ブラタモリで、タモリさんが名古屋に来た。

名古屋城と熱田がクローズアップされていた。

しかし、そのキーとなっていたのは、なんと

徳川家康!!




岡崎市民にとっては、

わが、家康公、である。



家康の、したたかな未来を見通す目。

まちづくり、国づくりの視点。

ブラタモリを見ていると、その意味が分かってくる。

家康公の偉大さを、万人が知ることになる。

ブラタモリ、あなどることのできない、すばらしい番組だ。



さて、堀川は南に向かって海までつづいていることは、名古屋市民に限らず

みんな知っていることだろうと思うが、

まさか、堀川をつくる工事が、

家康公の名古屋城づくりと同時に始められたとは、知らんかった。




ビバ、岡崎!!

ビバ、家康公!!



わたしは、愛知県岡崎市の教員であることを、誇りに思う!

いえ

夢や希望が、無くても許される社会へ

道徳の副読本。

夢とか希望、とか、強調しすぎ。


と、思うときがある。

道徳の資料に、「夢」を語る、というのがありまして・・・。




するとネ、子どもたちみんな、

ほぼ全員が、『職業』を言うのですよ。



あれ?

夢って、職業のことだっけ?

と。



必ずしも夢が、職業名とフィットしてない子もいるだろうに。

人間って、「職業」がやりたくて生きてるわけじゃないのにね。




副読本が、あまりにも性急に、「夢を持て」と煽るから、

子どもたちみんな、職業を言っちゃう。

夢とはなにか、ということを考えないまま、

ともかく、

「言え、言えよ、あるだろう、ほら、言え、言って!!」

と、焦らせる。

だから、

「え?夢?なんだ?夢ってなに?人生?は・・・?分からないけど、なにか・・・あの、サッカー選手!

言い終わった子は、

「いいでしょ? もう、きちんと言ったのだから」

という顔をしている。




「この人生をどうしていきたいか、

そして、これから、

 どんな社会をデザインすれば、

あなたが幸福に生きられるだろうか。

 自分と周囲の人と、どのような関係でいることが大事だと思うか。

その社会であなたは、どう生きていくつもりか」




そういう感じのことは何も無いまま、職業を言わせて、

「はい、夢がきちんと考えられましたね!」

と、なるわけがないよね。




夢を言うのが良い、ではなく。

その前に、頭も心も、うんと安心できるように、なっているか。

安心している子にしか、夢は見えてこない。




夢も希望も、なくても生きていける社会があればいいなぁ。

夢のある人はもちろん、

「今はまだ無い」という人もふくめて、どんな人も幸せに暮らせる。

「夢?必要ないね」

という人も、幸福に暮らしていける。

そのための条件をそろえておく、というのが、社会のデザインだ。

そんな社会であって、ようやく、子どもも安心して、はじめて、夢を語り出すことができる。


誰かに責められるのを防ぐための夢、

将来の不安から逃れるための夢、

夢を持てないことの恐怖から遠ざかるためだけの夢、

体裁、世間体、親の機嫌をとるための夢、

「それを言わなければならない」と思い込んでの夢、なんかではない、

本当に本当の安心に包まれたところからの、夢を。




子どもに向けて、「努力して幸せになりなさい」というのが、いちばん、嘘。

嘘で塗り固めた上のとどめの一撃が、

「あなたが幸福になれないのは、〇〇が足りないから」

というやつね。



とびだせ!子どもたち!