叱らないでも いいですか

「叱らないで、子どもに伝える・通じ合う」 小学校教師、『新間草海』の本音トークです。

小学校の教室の研究 友だちが面白い

教室が活性化する瞬間というのは、友達が思わぬ発言をしたときだ。

「え!?」

みんなが驚いて、その子を見る。

本人は、いたってふつうだ。

「だって、〇〇〇〇だから」


すると、まわりがいっせいに色めき立つ。

ついで、がやがやと、会話が自然発生する。

「まって!!漢字辞典でしらべるから!!」

有志が立ち上がって、勝手に辞典で調べ始める。

「わかる?」

「意味わかんないから、もう一度、言って!」

「ええっと、〇〇〇〇じゃないかなあ」

「え?どういうこと?」

教師は、そんなカオスをもう、どうすることもできず、ただ立ち尽くしている。



呆然とし、くたびれ果てたように、椅子にどたっとすわりこむのは、教師であり、

子どもたちは一斉に椅子から立ち上がり、めいめいに好き勝手な意見を交わし始める。


教師は力の尽きたように、3分ほどして、ようやく口から声を発する。

「おおい、みんなー、もういいかいー?」

「まだー」




これは、ね。

友達が、面白いんだよね。

友達が考えていることが、面白いんだな。

学校には、問いがあり、問いがあるということの背景には、

人間はモノを知らない、という前提がある。

友達が、そこで、ひょんな意見を言ったり、なにかを主張したりするのは、

それだけでもう、とてもエキサイティングなことであります。



友達の、やることなすこと、発する言葉、タイミング、しでかすこと、興味を持つこと、

それらが、もう面白くて仕方がないのです。

小学校の教室の研究 安心ということ

なぜ、小学生が、そこまで安心できるのか、について。

つまりは、教室には、敵がいない、ということなのではないだろうか。

ことさら「競争」ということもないし、する相手もいないし、

自分を評価してコントロールしよう、という者もいない。

だれかが【褒め殺し】してくることもない。




つまり、自分を操作しようと企む者が、いない。

自尊心を攻撃してくる輩もいない。

だから、安心している。



安心して、自分でいられる。

そういう空間だから、新しい創造が生まれる。

昨日までの教科書の解釈を、さらに発展させようとする。

友だちが、

「すごい」

と素直に驚くような意見を言う。

ところが、その「すごい」は、すぐに、あっという間に、共有されるのだ。

友だちのアイデアは、すぐに全員のものになる。

独占されない。




図工の時間に、一人がはじめたことは、すぐにだれかにマネされる。

どうやったらそういうことができるのか、開発したり、発明したりした子がすぐに他にシェアする。

開発者は、友達が真似してくれるのが、うれしくて仕方がないのだ。

真似する子も、だれのアイデアなのかなんて、気にしていない。

小学校では、ボールの投げ方も、けり方も、マットの前転も、みんな友達のやつをみて、

真似をして、しあって、うまくなるのだ。



大好きな友達が、自分の真似をしてくれている。

そのことが、自分にもたらしてくれる、かけがえのない尊重感は、もう、他に代えられないもの。

学級の仲間意識について

学級とは、子どもにとっては、いったいどんな場なんだろうか。

同じクラスの子に対して、つよい連帯感や、仲間意識をもつ。

家族もそうだが、教室も、自分の居場所、自分を受け入れてもらえる場、という感じか。

家族のように受け入れてもらえる場であり、学びの場。

子どもにとって、学級の仲間というのは、いったいどんな仲間なんだろうか。



クラスで、朝、だれかが休んでいるとき。

「あ、Mちゃん、休みだー」


すると、その日は、Mちゃんのいない、一日である。


Mちゃんがいない、ということがわかったとき、なんとなく、ああ、残念、という感じが湧いてくる。

朝の、まだ静かで、教室全体が透明で、なにも色のついていない時間に、

Mちゃんのいないことがわかったときの、

ああ、ちょっと物足りない、というような。




「ああ、Mちゃんがいないんだね」

「Mちゃん、休みだね」

「Mちゃん、熱があるんだって」




Mちゃんのことが、話題になる時間。




「Mちゃんの家に、連絡帳とどける人ー?」

「あ、2組の〇〇ちゃんの家が、ご近所!」





上下感のない、優越感、劣等感、そんなものがまだ無い、

まだ、10歳にならない子どもたちの、

小学校の4年生の、「仲間意識」とは。



ともかくも、仲間である、という、『仲間意識』。

ただ、一緒のクラスだー、というだけの。

とにかく仲間である、という意識。

ほとんど、理由が、ない。

理由がないのに、仲がよくなるって・・・。



不思議だね。

なんで、よそよそしく、ならないのだろうか・・・。




関われば、関わるほど、安心できる、間柄。

教室という場がもつ、スーパーな潜在力によるもの、なのかも。



花と水滴黄色6

教室という平和の砦

ついに岡崎の夏が始まりました。

夏休みです!!

(まだ夏休みでない地域の小学校の先生たち、ホントにご苦労様です・・・)



さて、夏休み入ると、子どもたちが学校に来なくなるので、

わたしはずいぶんと、さみしい思いをもつ。

しかしまあ、そんなことはどうでもいい。



教室というのは、なんと平和で、あたたかくて、居心地がよくて、

面白くて、人が大好きになってくる場だろうか。



わたしは1学期のささいな子どもたちとのやりとり、

子どもたちどうしのおしゃべりや、どうでもよいような事柄を、あれこれと思い出す。



そして、なんども、それを反芻し、幸福な気分に浸るのであります。

人が好き、というのは、なんとも象徴的なことだ。

子どもは、どうしようもなく、仲の良いもの。

けんかもするし、いさかいもあるが、なんとも本気で、人が好きで、友達が大切でしかたのない人たちであります。



教室が、いかに人生のヨロコビに満ち溢れた場所か、

多くの大人がしかめつらで生きているのを見ると、

なんとも申し訳ないが・・・。






世の中の、さまざまな気にしなくてもよいことを気にせず、人がどうしてこうも人を大切に思うのだろうか、ということを、ありとあらゆる教室の中の事象でもって、確認していける日々は、もうこれ以上ないほどの幸福だ、と思います。


この、小学校の教室のもつ価値に、賢い大人の、だれも目を向けない。

(しかし、目を向けられると、不要な世話を焼いてくる可能性もあるから、このままでよいのかもネ)

kids_kyouryoku

子どもの泣き声で思うこと

海の日がありましたでしょう。

どうやら、近所の家に、そこのお孫さんが遊びに来ていたらしい。

朝の8時ごろでしたでしょうか。

わたしゃ、家で、つめたい氷を口に入れて、ボーッとしておりましたら、

かすかに、ほんのかすかに、遠くの方から、子どもの泣き声が聞こえてきたんですわ。



「ん?」

と思いましたね。

瞬間、昭和に戻ったような。

ゴダイゴ銀河鉄道999を熱唱し、国際児童年が謳われたような時代には、
全国のご家庭で、子どもの泣き声がしていたような気がする。



しかし、時代が変わりました。

今は、子どもの泣き声を聞いたら、通報することが奨励されてますからネ。

児童虐待と思しき事態を感じた時点で、通報する義務があります。

これまで、児童相談所全国共通ダイヤルは10桁の番号(0570-064-000)でしたが、覚えやすい3桁の番号にして、子どもたちや保護者のSOSの声をいちはやくキャッチするため、平成27年7月1日(水)から「189」(いちはやく)という3桁の番号になりました。


ところが、わたしはそこのお孫さんたちを知っているし、その兄弟が、しばしば喧嘩をすることを知っている。

だから、通報はしません。わたしの主観的な判断で良いのですから。通報するかどうかの判断は、その人個人に委ねられていますからネ。わたしの脳みそは、それは児童虐待とは判断しなかった。



子どもは泣くものだ、ということ。

これが、どうにも、社会全体で、常識にはなっていないらしく、

いつのころからか、

子どもが泣いているのは、異常

という認識があるようです。

なんでだろう?




一つには、虐待防止キャンペーンが、思わぬ逆作用を生んでいるのでは、と思うことがあります。


児童虐待防止キャンペーンのチラシに、

「近所から泣き声が聞こえてきたら要注意」

というような文面があり、これはまずいだろう、と思ったことがあります。



これは逆でしょう。

「近所から、泣き声もしないような、火の消えたように静か~な子育て家庭があったら要注意」

が、本当ですよね。

おそらく、泣き声をたてることすら許されないような関係は、かなりいびつで、その子のこころを捻じ曲げているように思う。

子どもは思い切り泣くことを許されるのか、

それとも泣くことが許されないのか。

この、どっちが虐待か。



子どもが、泣くのは、平和のしるし。

ホントの虐待なら、声を絶対にたてさせていない。

akachan_naku_hitogomi

「思い出のまあにい」

つい先日。

思い出のマーニー」という映画がテレビで放映されたらしい。



この映画のタイトルを聞くと、どうしても思い出すことがある。




昔のクラスでのこと。

この映画のタイトルを聞いたある子が、

「まあにい(兄)の本名はなんなの?」

と、思ったそうなんです。



「まあ兄?」


思い出のまあ兄。


なるほど。

ま・さ・こ 姉(ねえ)さんなら、まあ姉ちゃん(マーねえちゃん)になるだろうし、
ま・さ・ひ・ろ 兄(にい)さんなら、まあ兄さん(マーにいさん)になるだろうね。


思い出のまあ兄(にい)。

なかなか、親しみのある、ちょっとほんわかした、ホームドラマのような映画。


人の、名前の、呼び方だけでも、

こんなふうに、そのへんの空気が、ずっと幸せになるわ。



〇〇(←名前の一部)兄(にい)、という呼び方。

この呼び方をしたくなる、そういうふうに声をかけたくなる、そんな人間関係がある。




そういえば。

子どもたちどうしで、あだ名で呼び合っているとき。

お互いに、そう呼び、呼ばれていることの、楽しさ、安心、じんわりと通じるもの。

ありますね。あると、思うね。


・・・ (*´з`) ・・・

思い出の

自由研究でなにをするか、10のヒント

(前回からのつづきです)

パターン2は、高学年向け。

これは、ともかく、【実験と表とグラフ】。
これが決め手になります。


もうすでに、わかっているようなことや、本に書いてあることで、良いのです。

自分で工夫して、家にあるものや安価な道具で、思い切り実験できることが大事。

子ども時代は、「実験」という2文字だけでも、十分にこころがはずむのです。




ところで、自由研究、わたしが好きなのは、パターン3です。

つまり、

実験をして、新しい発見をする。


これは、子どもだけでなく、中学生にも高校生にも、ときにはもしかすると
大人にだって、高度なことです。

たとえば、
魚には色彩が見えるのか。

こんなの、はたしてどうやって実験するのか、分かりません。
実験するったって、どうやるの?

このくらいのレベルが、パターン3です。

しかし、これ、なんとなく実験してみた、というので、いいんです。
水槽を赤い画用紙でとりかこんだときの、餌のがっつき方、というのでもいい。
3日後、青い画用紙で同じようにえさをやって、ちがいを見てみればいい。

ずいぶん主観的な実験で、厳密にいえば科学の世界からは遠いものなのですが、
小学生にとっては、

「なんとか実験したい。とりあえず実験してみよう」

という気持ちと、アタックする行動が大事なので。

この、【実験のやり方】、という部分について、先生や親に相談するのは、とてもよいことだと思います。


以下、参考までに。


1) うちの猫は、左利きか、右利きかを検証してみる。

2) かっぱえびせんをつくりたいが、作り方がわからないので、袋の原材料名をみて、勝手に想像してやってみる。

3) 夏休みをすべてつかって爪の長さののびる速さをしらべる。

4) 1ぴきの蟻と砂糖をびんに入れて放っておくと、翌日も「はたらき蟻」のままでいるか、だらけた蟻になるか検証する。

5) 新しい漢字を発明し、現代社会において漢字として認めてもらうにはどうしたらよいか調べる。

6) 手羽先を食べたあとに、骨がのこったので、ポリデントで骨を洗い、きれいな骨格標本にしてみる。

7) すいかの種の場所を、徹底的にしらべてみる。

8) 積木で迷路をつくり、ダンゴムシを入れて走らせ、学習能力があるかどうかしらべる。

9) コンビニエンスストアに集まる蛾を捕獲し、各コンビニごとに蛾の種類の違いが出るかしらべる。

10) お母さんの機嫌がよくなる一言はなにか、毎日調査する。


好きなことに、どっぷりと浸りこむ快感は、
小学生にとって、なによりの「心のごちそう」ですナ。

 

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