叱らないでも いいですか

「叱らないで、子どもに伝える・通じ合う」 小学校教師、『新間草海』の本音トークです。

松本大洋の新作 Sunny のこと


松本大洋が、ここまでビッグネームになるとは思っていなかった。
同じ職場の仲間に教えてもらったのが、12年前。
ポッと出てきただけか?と当時は思っていたが、この12年ほどの間に、「漫画界のカリスマ」と呼ばれるほどになっていた。(ブック朝日コム

新作。
「Sunny」。

「はっきりと書かれてはいないが、時代は1970年代後半だろう。様々な事情から親と暮らせない子どもたちが集まる「星の子学園」という関西の施設が舞台となっている。」(前掲・ブック朝日コムより)

この学園のリアリティが話題になっているそうだ。
なんで松本大洋は、こんな風景を、まるで見てきたかのように書けるのだろう。不思議だ。

さて、ここに、小学校3年生の子どもたちが登場する。
施設に暮らすのではあるが、きちんと、地元の小学校には通っているのだ。そこでは、他の子どもたちと同じように、小学生として学校生活を楽しく送っている。

ただ、帰る場所がちがう。
他のみんなと同じような、「家族」のいる場所ではない。
施設、なのである。
親代わりの人はいる。
面倒を見てくれる大人はいる。

たまに施設の中に、子どもの心をすっかり見通したように、子どものハートにずしんとくる言動を、ストロークを与えてくれる大人もいる。
そうした大人を見つつ、学校の先生にも、彼らなりの独自の見方でもって、相対している。

物語に登場する子供たちは、なんだか、すっかり、人間と言うものを、表層ではなく、深層でみよう、というような、ひときわするどい視線をもった子供たちだ。

朝日コムが、
「いつも裸の太郎は、朗々と『ヨット』を歌う。暗い曲調と明るく力強い歌詞が同居する印象的な歌であり、この物語のテーマソングのように感じられる」
と書いている。
これはするどい。

暗い曲になってしまうのは、今の世の常識と、やはり自分自身の実の親と限られた接点しかもてないようになっている、「大人の都合」に対するくやしさ、つらさ、かなしさ、さびしさだ。

しかし、一方で、枠から解放されているという明るさもある。
常識を外れていられる、と言う自由さ。それは、とても明るいもの。
また、常識をずれている、というところからする、「表層や外面、事柄」へのこだわりの馬鹿らしさ、一時的なもののつまらなさを知っている、という優越感か。

表層がどんなであっても、現実がどんなであっても、その底に、やはり確たる「生きていることの喜び、人として人とともに生きていくことの楽しみ」があることを知っている、感じている、という強さか。

強い。
この子たちは、強い。

いや、この松本大洋の描く子どもたちだけが強いのではない。
すべての子が、強いのだ。
本当は、どんな子も、強い。(大人が、その本来の強さを引き出すのに邪魔をしないことだろうな)