【不登校】子どもを信頼するとはどういうことか
とことん子どもを信頼できるか。
そこに、すべてがかかっている。
「最後まで子どもを信じてあげられる親」だけが、子どもに信頼される・・・。
わたしがエンジニアを辞めて、小学校教師になったころのこと。
不登校の子がいました。
今でも思い出すと、スッと顔が浮かんできます。
いい子でした~。
なにかわからないが、朝になると、学校へ行けなくなる。
わたしが担任するようになって、少し元気になって、去年よりはずいぶん学校へ来れるようになった、と喜んだ。
1学期はまあまあ。
ところが、2学期になると、これない日が増えた。
「行事が重なって、疲れてしまったのでしょうかね」
校内の支援コーディネーターの先生に相談すると、なんとなくそんな雰囲気。
こっちは初任の1年目で、ちっともわからない・・・。
そんなものか、と思うくらいで・・・。
朝、お母さんが、下の子を保育園へ送った後、校門のところへ連れてくる。
校門のところで、お母さんの自転車にしがみついたまま、離れない彼。
泣き顔で、行きたくない、と繰り返す。
困惑する母親。
そこへ私が駆けつけ、なんとかなだめすかして、教室へ連れてくる。
しかしそのうち、教室に来れなくなり、保健室登校になった。
さらに、それもできなくなり、やがて、お母さんも彼を連れてこないようになった。
彼の欄にだけ、欠席のしるしがずらーっと並ぶようになった。
これはきつかったですね。
不登校は、担任の精神力をかなり減らします。
こたえますね・・・。
多くの担任がそうするでしょうが、わたしも例にもれず、みなさんと同じように、自分を責めました。
責めて責めて、土日も、ずっと彼に申し訳なくて、なにがいけないんだろう、と考え続ける日。
咳が止まらなくなり、耳鼻咽喉科に通って咳止めの薬をずっと飲み続けていたのもこのころです。
しかし、ある時から医者が、
「精神的なものも大きいからね。年度末で軽くなるよ」
という。
そして、・・・その通りになりました。
ベテランのお医者先生はすっかりお見通しだったわけ。
3月になって、彼の母親と次年度のことを見越して、かなり長めの懇談をしました。
そのときのこと。
教室に来ていただき、二人でお話しました。
お茶を用意すると、それだけでもうハンカチを用意されて、
最初から涙を拭かれていたのを、今でも思い出します。
少し暖かくなってきていて、春を感じる季節です。
静かな、午後でした。
秋の学習発表会の話が出ました。
実は彼、9月の運動会には来ることができたのです。
でも、11月にあった学習発表会へは、参加できなかった。
9月に運動会に来れたので、次は学習発表会だ、というので、しかるべき対応を取ろうとしていました。コーディネーターの先生も支援級の先生も私も、みんなで学習発表会に来てもらおうと、かなり念入りな作戦を立てていました。
彼にはずっと前からそのための予告をし、クラスの中で彼の持ち場をつくり、すこうしだけ、目立つ場面に出てもらう作戦です。
セリフがあり、学習内容を読み上げて、同じ班のみんなと模造紙の順番を入れ替えると、学習結果がきれいに見ええてくるのです。会場からは、その瞬間、オーッ、とため息がもれるはず。
クラスの中でも、班の中でも、見栄えのする役、けっこうおいしい、と思う役をまかされて、当初は彼も、
「これならやれそう。行きたい」
とお母さんにもらしていたといいます。
それを聞いたお母さんはさっそく、うれしい報告、ということで担任にも連絡帳で知らせてくれました。わたしもそれを見て、夕方すぐにお返事の電話をして、あまりプレッシャーを与えないで淡々とその日までの準備を少しずつやりましょう、とお母さんに話しました。
お母さんも、うれしそうな声で
「今回は出てほしいと思います」
と期待していたようでした。
私もドキドキしながら、「ああ、来てもらえそうだ」との予感を強くしたのです。
しかし。
いよいよ、という時になって。
予想通りの展開になってきます。
前日の夜、彼は「ちょっとおなかがいたい」といい始めました。
お母さんはそんなこともあろうか、と予測をしていたので、落ち着いて対応をしました。
朝になってみたらどうなるか様子をみましょう。ともかく、今日は寝ましょう、と・・・。
すると、彼も、「そうだね」と落ち着いて、にこにこしながら横になり、やっぱり明日は楽しみだ、と言って寝たそうです。
ここでお母さんもうれしくなって、ご主人にも
「明日、いけそうよ」
とうれしい報告をしています。
ところが、朝になって、起き抜けに、不機嫌な声で、靴下がない、と騒いだのです。
これはお母さんも必死になって靴下を探し(というか目の前にあったのですが)、できるだけ静かな感じで、ここにあるから大丈夫、といって落ち着かせようとします。
むくれて靴下をはく彼。
お母さん、一瞬、何か言いたくなったそうですが、ぐっとこらえて、そのまま機嫌よく(と冷静さを保ちながら)朝食へ。
すると、朝食の場面で、彼の中でなにか、歯車が狂い始める。
ちょっとした弟の行動に腹を立てて文句を言い始めます。
お母さん、ぐっとこらえて、できるだけ早く朝食を済ませて、なんとか学校へ行かそうともくろみます。
だって、年に一度の学習発表会ですからね。本番なんです。
弟との口げんか、弟の方がひどく泣きましたが、もはやお母さんにも意地がありますから、軽くスルーしていつものように片付け、ランドセルを確認し、トイレ、ハンカチ、ティッシュ・・・と・・・。
ところがです。
ダイニングにある椅子から、いっかな、降りようとしない。
どうしたのでしょうか。
お母さん、ここで、すっかりわからなくなります。
昨日まで、あんなに楽しみにしてくれていたのに・・・。
どうして息子は、行ってくれないのか。
もしかしたら、このまま今日は、いけないのかも・・・。
こう思うと、本当につらくなって、
せっかく!!
という気持ちがぐぐっと頭をもたげてきて、
「なんのために練習もしてきたの、今日はぜったいに行きなさい! 行くって自分で言ってたでしょう!!」
と大声を出してしまう。
ここで、お母さん、一瞬しまった、と思ったようです。
でも、仕方がありません。
彼はもちろん、ふてくされてちっとも動かない。
「今日は行かない。行けない。行きたくない」
と言い続け、さらには、ぼろぼろと泣き始めます。
ここで「つなひき」をしても、仕方がない。
お母さんは、コーディネーターの先生と、「綱引きの土俵からは降りる」という約束をしていました。そこで、今、息子と綱引きが始まりそうだった、というのがわかって、ちょっと冷静さを取り戻します。
そこで、
「行きたくないんだね。そうか、エネルギーがまだ貯まらないんだね」
と言い、お皿を洗い出します。
「まあ、いいよ。・・・そこで座ってて、エネルギーが貯まるの?・・・どうせなら、時間かかってもいいから、自分の心にエネルギーが貯まることやりなさい」
彼の状況をと受け入れて、心のエネルギーをためるところに照準を合わせて話します。
すると、これもまあ、よくある筋書き通りですが、
「発表会に、ぼくは出ないけど、みんなのを見に行く」
と言い出すのです。
お母さんは表情を変えず、そう、それならそうしましょう、ということで、ゆっくり支度をして、学校へ行くことができました。
そこでもお母さんは、もし出られなくてもしょうがない、と思う気持ちとともに、もしかしたら学校へついたら、友達がさそってくれないかしら、顔をみて、○○くんって誘ってくれて、すんなり息子も舞台に出て発表してくれないかしら、と半々の気持ちになります。あきらめと期待が、入り混じったような感じでしょうか。
すると、これも筋書き通りで、彼に話をしたわけではないのに、
「お母さん!!学校に行くだけ・だよ!見に行くだけ! ぼく、ぜったい舞台には出ないよ!!!!」
と強い調子で言うのです。
まるで超能力。お母さんの気持ちを、すっかり感じ取って見通しているわけ。
お母さんはそれを聞いて、まあ9割方あきらめ顔になり、それで教室へ行きました。
すると、息子は舞台になっていた視聴覚室の小さな舞台、机の並んだ場所にはいかず、そこから少し離れた廊下にいて、そこから部屋に入ろうとしません。
カーテンがひいてあるのをいいことに、そのカーテンのかげにかくれて、みんなのことをじっと見ている。
お母さんもそこに付き添って、まあ部屋に入るんだか入らないんだか、という妙な場所に突っ立って、それでも内部の様子が見えるから、そこからクラスのみんなの舞台発表を見ていたのだそうです。
もうそこまできたらあきらめの心境が優っているから、
「○○くん、今、上手にセリフ言えたわね」
とか、
「○○さんが言っている暗唱文って、この間、Jくんが言っていたやつ?」
とか、普段通りの会話でもって、息子としゃべっていた。
ところが最後、クラスのほぼ全員がそろってリコーダー演奏をしたり、社会見学のときの小さな劇をしている姿を見たり、本当は息子が出るはずだった、いうはずだったセリフを、まったく初めてとは思えないほどの上手さで、別の子が巧みにしゃべって発表したのを見た時から、
「ああ、うちの子は本当は、先生にも友達にも、信用されていなんだ」
と思ってしまい、さらには、あそこの舞台の上に、なぜ息子が立っていることができなかったんだろう、なぜ、うちの子はあんなふうに、ほかの子と同じように笑ったり、発表したりができないんだろう、と考え出すと、つらくて涙が頬を伝ってきて、もう声が出そうになって、必死になって立っていたのだそうでした。
そうすると、これも案の定ですが、
「お母さん、もうやだ、帰りたい」
と言って、息子が手を引っ張るので、私に向かって目礼をして、すぐに帰宅したのだ、ということでした。
ここまで話を聞いて、私も、しばらく何も言えずに、シーンとしていました。
今、こうやって振り返って整理してみると、
すべてお母さんの心境に合わせて、
子どもが動いていることがわかる。
しかし、この話を目の前で聞かされているときは、自分が責められているような気持ちで聞いていましたので、教師ってつらいなあ、ということを思ったことを覚えています。
とくに、代役の子を立てて、(ひそかに、でもないつもりでしたが)練習をさせていた、ということを責められた、と思ったのです。
私は、お母さんに謝りました。
しかし、お母さんは、まったくそんな必要はない、ということをおっしゃってくださいました。
そして、
「わたしがこうやって、息子と、ぐるぐる・ぐるぐると、なにか迷路のようなところを回っているのには、きっとなにか意味があることと、思うようにしています」
とおっしゃったのです。
いま、こうやってブログに書いてみていると、本当にそうだなあ、と思います。
お母さんが、子どもにテストされているみたいなものですものね。
お母さんが子どもを受け入れた時は、子どもも母を受け入れるし、
お母さんが子どもを受け入れられないときは、子どもも母を受け入れないのです。
ここまで見事に一致していると、すごいと思うけど・・・。
彼から、今でも、年賀状が届きます。
去年の年賀状には、中学校に入学するので、新しい制服を着ている姿が、写真に写っていました。
あのときと同じような、素直そうな、いい笑顔がありました。
そして、横で、お母様も、笑っていらっしゃいました。