いろんなふうに、考えられる、という件
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いろいろと考えるのが、面白い。
ああだ、こうだ、と考えを言い合うのが、面白い。
教科書と合っているかどうかが大事なのではなく、
俺たちは、こんなふうにも、考えることができたのだ、という自負。
瓶(びん)の中で、ろうそくの火を燃やし、蓋をしたら、しだいに炎が小さくなり、30秒ほどで消えてしまった。
これを、
「どういうことが起きたのか?」
「明らかになったことは何で、明らかになっていないことは何か?」
というように、討論していくと、面白いことがわかる。
1) 「なにが起きたのか」を、説明するだけで、さまざまな見解が出てくる。
2) 明らかになったことは、ほとんどない。たった一つ、火が消えた、ということだけだ。
3) 逆に、まだ明らかになっていないことが、膨大に見つかる。
実験したんだから、結果が分かったはずで、なにかが明らかになったはず。
そう考える人が、ほとんどだろう。
それが、科学的思考ってものだ。
ところが。
やってみると、ちがうのだ。
子どもたちから出てくるのは、疑問点と、いまだ明らかにならない事実ばかり。
そもそも、いったい何が起きたのか、という点でさえ、いろんな意見が出てくるのだ。
理科は、やればやるほど、分からなくなる教科なのであった。
Aさんの意見。
火が消えたわけは、酸素がふたの隙間から、上空へと軽くなって上がっていったため。
Bさんの意見。
火が消えたわけは、酸素が水蒸気に変わってしまったため。
いろんなふうに、考える。
で、今のところ、すべて、それらはあくまでも「考え」であって、
「事実」ではない、という、宙ぶらりんな感じ。
同じように、
人間とは何か、相手を理解するとは何か、という点をしらべていくと、
確かなことがスーッと消えたように見えなくなる。
気軽に頼っているところの知識や見解というものが、あやふやなものに思えてくる。
あれほど確かだと思えたものは、みな、正体不明のもやもやした実体のないもの。
どうやら確かなのは、
「〇〇したい」
と思っている自分、というだけだ。
相手のことなんて、ちっとも、分からない。
いろいろと考えるのが、面白い。
ああだ、こうだ、と考えを言い合うのが、面白い。
教科書と合っているかどうかが大事なのではなく、
俺たちは、こんなふうにも、考えることができたのだ、という自負。
瓶(びん)の中で、ろうそくの火を燃やし、蓋をしたら、しだいに炎が小さくなり、30秒ほどで消えてしまった。
これを、
「どういうことが起きたのか?」
「明らかになったことは何で、明らかになっていないことは何か?」
というように、討論していくと、面白いことがわかる。
1) 「なにが起きたのか」を、説明するだけで、さまざまな見解が出てくる。
2) 明らかになったことは、ほとんどない。たった一つ、火が消えた、ということだけだ。
3) 逆に、まだ明らかになっていないことが、膨大に見つかる。
実験したんだから、結果が分かったはずで、なにかが明らかになったはず。
そう考える人が、ほとんどだろう。
ある実験をやってみた。
明らかになったこと ⇒ 増えた。
不明だったこと ⇒ 減った。
それが、科学的思考ってものだ。
ところが。
やってみると、ちがうのだ。
子どもたちから出てくるのは、疑問点と、いまだ明らかにならない事実ばかり。
そもそも、いったい何が起きたのか、という点でさえ、いろんな意見が出てくるのだ。
理科は、やればやるほど、分からなくなる教科なのであった。
Aさんの意見。
火が消えたわけは、酸素がふたの隙間から、上空へと軽くなって上がっていったため。
Bさんの意見。
火が消えたわけは、酸素が水蒸気に変わってしまったため。
いろんなふうに、考える。
で、今のところ、すべて、それらはあくまでも「考え」であって、
「事実」ではない、という、宙ぶらりんな感じ。
同じように、
人間とは何か、相手を理解するとは何か、という点をしらべていくと、
確かなことがスーッと消えたように見えなくなる。
気軽に頼っているところの知識や見解というものが、あやふやなものに思えてくる。
あれほど確かだと思えたものは、みな、正体不明のもやもやした実体のないもの。
どうやら確かなのは、
「〇〇したい」
と思っている自分、というだけだ。
相手のことなんて、ちっとも、分からない。